解体前の十楽寺
解体前の十楽寺

【音声読み上げ】


柳井市日積3129番地

十楽寺は、弘法大師が諸国ご修行で弘仁3年(812年)3月、中山の里を訪れた折、数多の鳩子が飛来し大師さまの袖をくわえ、深山の峰へ導かれるまま深山(現在の銭壷山)に登られると、阿弥陀三尊の御来迎を拝されました。
「この不思議を末代に伝えんと郷に下りて里人に語り、山上に堂を建立し『鳩子山峰の坊』を開基あそばさる。
深山の惣名を鳩子山と申すはこの因縁なり。
長徳2年(996年)恵心僧都、鳩子山へご参詣あそばし折も三尊来迎を拝され、木像を一刀三礼(いっとうさんらい)に刻み開眼供養、寺号を『鳩子山十楽寺』とお付けになった」と『玖珂郡志』に記録があります。

木造阿弥陀如来坐像(市指定有形文化財)
木造阿弥陀如来坐像(市指定有形文化財)

本尊の木造阿弥陀如来坐像は恵心僧都の作といわれ、柳井市内で最古の藤原仏とされており、市の有形文化財に指定されています。
寺は文治2年(1186年)、銭壷山上からこの地に移転され、真言宗から浄土宗になり、戒善寺(柳井市大畠)の末寺となりました。
この寺に伝わる十楽寺縁起は、本尊とともに文化財に指定されており、その縁起に、「大師さまと鳩の子」、「お文の身がわり」、「本尊の取合騒動」等の面白い昔話が残っています。

半跏地蔵
半跏地蔵
半跏地蔵

前庭の半跏趺坐の地蔵さんは珍しい形と注目されており、石段には 17 個の盃状穴が見られます。
令和4年(2022年)に廃寺となり、建物は解体され、本尊などは中山の別の場所に移されました。

解体後の十楽寺跡
解体後の十楽寺跡

「十楽寺縁起」より

(1)大師さまと鳩の子
弘法大師が諸国修行で中山をお通りの時、深山より鳩の子が多数飛んできて、衣の袖を喰えて峯へ案内しました。
大師は西の山に弥陀のご来迎を拝まれました。
里人と相談し、堂を建立し、弥陀の尊像をかかれました。
よって、寺号を鳩子山峯の坊と称しました。
惣名深山を鳩子山と変えました。

(2)お文の身がわり
中山の好村源助正広夫婦は子供に恵まれず、十楽寺本尊に願を立て、祈願すると、玉の女児を授かりました。
お文と名付けました。
お文が13歳の時、中山に疫病が流行し、人びとは苦しみました。
お文は願を十楽寺本尊に立て、里人の身代わりとなり亡くなりました。
やがて、疫病はおさまりました。

(3)本尊の取合騒動
十楽寺ははじめ銭壷山にありましたが、山頂から里の近くへ移転することになりました。
中山と神代の里人が、お互いに取り合いとなりました。
「明朝、一番鶏が鳴いたら山に登り、先に登った方が持ち帰る」という古老の提案があり、中山側は山の中腹まで下りて一夜を明かし、山頂に駆け上がり、勝ったので、本尊を中山へ移して建立しました。

十楽寺縁起(部分)
十楽寺縁起(部分)
山号額「鳩子山」
山号額「鳩子山」
かつての十楽寺
かつての十楽寺

石段の盃状穴

18段の石段がありますが、下から2段目に3穴、5段目に3穴、6・7・8段目に各1穴、9段目に4穴、10段目に2穴、11・12段目に各1穴、合計17穴の盃状穴が見受けられます。
その大きさは、大小・深浅ともに様々です。

石段の盃状穴

十楽寺跡までの道案内

十楽寺跡までの道案内

(ふれあいどころ437から約1.9km)

【1】ふれあいどころ437出口を左折。

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を左折し、国道437号を大畠方面へ。

国道437号を大島大橋方面へ約1.3km

【3】あそか苑の大きい看板のある交差点を左折。

1車線、約50m

【4】すぐに突き当たり。右に曲がる。

1車線、約350m

【5】川沿いを進み、地蔵の手前で左に曲がり、橋を渡る。

1車線、約30m

【6】まっすぐ進み、急な上り坂となり、約60m先左手に十楽寺跡あり。