大愚和尚生誕の地

【音声読み上げ】


柳井市日積3168番地1

萩市にある東光寺は、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺で、毛利藩主の墓所があることで有名です。
東光寺の第15世住職大愚衍操(だいぐえんそう)和尚は、日積中山の出身です。

大愚衍操和尚像(東光寺所蔵)
大愚衍操和尚像(東光寺所蔵)

大愚和尚は、元文3年(1738年)に、今は畑になっている「大段屋敷」といわれる地に、農家の二男として生まれました。
幼い頃、大圓寺(岩国市錦見)に預けられ、出家の道を歩むこととなりました。
生来の俊才と懸命の努力により、宝暦9年(1759年)に大愚衍操として僧侶になることができました。
以後、知足寺(岩国市通津長野、後に景福寺に合併)の開山、景福寺(岩国市通津)の再興を経て、大圓寺第7世住職となりました。
住職となった大愚和尚は、萩の東光寺に出向く機会が度々あり、やがて毛利重就(もうりしげたか)に出会い、親しい関係となりました。
その象徴が、毛利重就が開基と伝えられ、大愚和尚が開山した自得寺(周南市権現町、東光寺の末寺)です。
寛政13年(1801年)、ついに東光寺の第15世住職となりました。
その在職中、大雄宝殿(国指定重要文化財)の修復や、三門(同)の建立等の大事業を行いました。
在職は16年に及びました。
東光寺退山後は江戸に旅立ち、安福寺(廃寺)を開山しましたが、数年後に病になり、萩に戻りました。
文政7年(1824年)、高安寺(萩市、廃寺)において、85歳で亡くなりました。

大愚和尚 略歴

元文3年(1738年)日積村中山大段に生まれる
岩国錦見大圓寺で修行し、得度
安永8年(1779年)岩国の通津長野に知足寺開山
徳山権現町自得寺を開山
寛政元年(1789年)岩国大圓寺の住職
大阪南河内法雲寺住職歴任
寛政13年(1801年)萩東光寺十五世住職となる
重要文化財の三門を建立
大雄宝殿等の大修理をする
同寺中興の僧
文化14年(1817年)江戸上野安福寺開山
文政7年(1824年)萩高安寺において入寂
大愚和尚ゆかりの地(山口県内)
大愚和尚ゆかりの地(山口県内)
東光寺大雄宝殿(国重要文化財)
東光寺大雄宝殿(国重要文化財)
東光寺三門(国重要文化財)
東光寺三門(国重要文化財)
東光寺三門にある額「布金祇園 大愚書」
東光寺三門にある額「布金祇園 大愚書」
自得寺
自得寺
自得寺大愚和尚碑
自得寺大愚和尚碑
大圓寺
大圓寺
景福寺
景福寺
景福寺大愚和尚墓
景福寺大愚和尚墓

日積に伝わる2つの軸

大愚和尚が久しぶりに日積に里帰りされた時、往還の途中で籠を止め、幼い頃お世話になった老婆に、記念として差し出されたものと伝わっています。「祥海福波」と書かれています。

文化5年(1808年)、大愚和尚が東光寺の大雄宝殿の大修理を終了した後、絵師を招いて自画像を描かせ、開山した寺々に記念として配ったといわれています。知足寺に配った軸が、日積で保存されています。

大愚和尚生誕の地までの道案内

大愚和尚生誕の地までの道案内

(ふれあいどころ437から約1.8km)

【1】ふれあいどころ437出口を左折。

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を左折し、国道437号を大畠方面へ。

国道437号を大島大橋方面へ約1.3km

【3】あそか苑の大きい看板のある交差点を左折。

1車線、約50m

【4】すぐに突き当たり。右に曲がる。

1車線、約50m

【5】すぐに左に曲がり、橋を渡る。

1車線、約150m

【6】上り坂の途中で右に曲がる。

1車線、約150m

【7】突き当たりの右手に生誕地あり。


参考文献

村中啓一『萩東光寺中興の禅僧 大愚和尚伝』1974年
株式会社くるとん『くるとん vol.46 笑顔が実る里 日積』2015年