小瀬上関往還 丸山一里塚跡

【音声読み上げ】


柳井市日積12461番地1

江戸期には、小瀬(岩国市)と上関(上関町)の間に全長約15里(約60km)の往還があり、旅人の目印となる一里塚が1里(約4km)ごとに設置されていました。
岩国領の各村の詳細が記された『享保増補村記』(1726年)には、「一里塚 大原丸山 安芸境小瀬より七里。上ノ関より八里。」とあります。
『享保増補村記附図』には、往還と一里塚が図示されており、一里塚は、由宇川に架かる丸山橋の東側にあったことがわかります。

享保増補村記附図(岩国徴古館蔵)
享保増補村記附図
(岩国徴古館蔵)

『日積村地下図』には、「従安藝境小瀬川七里 従上ノ関八里 従甲垰七里三拾町」とあります。
丸山橋の西側で道は2つに分かれて上関と甲ヶ垰(現:下松市)にそれぞれつながっており、ここが交通の要衝だったことがわかります。

日積村地下図(山口県文書館蔵)
日積村地下図
(山口県文書館蔵)

現在は道路が拡幅されたため、一里塚は残っていません。
小瀬上関往還が、通津から大畠まで海岸を通らず、日積を経由しているのは不思議です。
一つは、神東海岸では山が急に海に落ちており、通行困難であったためだと考えられています。
また、日積は岩国領の穀倉の村で、重要であったためとも考えられています。
過去の聞き取り調査によると、大正年間、この付近に2~3軒の旅籠屋や居酒屋があったそうです。
それ以前、藩制時代にあっても不思議ではありませんが、記録は残っていません。
昭和になると、薬屋が泊まる程度で、ついに姿を消したといわれています。

吉川経倫が日積の小瀬上関往還を通る

~瑞相寺文書『御止宿之記』より~
天明6年(1786年)、萩から岩国の帰路、柳井の瑞相寺に2泊した。
閏10月29日午後1時頃、瑞相寺を出発し、江の浦から船で岩国へ帰る途中、大畠瀬戸で北東の風が強く吹き出したため、大畠に午後6時頃上陸し、日積を通って通津に午後11時頃到着した。
翌30日船で今津に向かい、11月朔日に岩国に到着した。

丸山一里塚跡までの道案内

丸山一里塚跡までの道案内

(ふれあいどころ437から約2km)

【1】ふれあいどころ437の出口から左折

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を右折し、国道437号玖珂方面へ

2車線、約1,300m

【3】下り坂の後、大原橋を渡ると、案内標識あり。柳井方面へ左折し、県道68号へ。

1車線、約600m

【4】大原バス停を過ぎ、丸山橋手前、向かって右手に丸山一里塚跡あり。


馬頭観音
馬頭観音

一里塚標柱のそばにある石仏は、「馬頭観音」です。ここから300m由宇寄りの小瀬上関往還にも2体の馬頭観音が鎮座しています。
昔、荷物運搬中に倒れた馬をまつったといわれています。
『享保増補村記』(1726年)の日積村の部分をみると、家686軒に対し、牛467疋、馬146疋となっており、平均約1頭の牛馬を飼っていたことになります。
馬は、米などの運搬手段に利用したものと思われます。牛馬は家の宝として大切にされ、病気や事故を起こすと主人の身代わりになったと悼まれました。