義民伝助の祠

【音声読み上げ】


柳井市日積12184番地2

藩政時代のいつのころか、大原の刀禰職(庄屋の下で、村の世話をする人)を折坂の伝助がやっていました。
ある年、日照りで米が大凶作となりました。
藩へ年貢米が納められそうもないので、百姓たちは困ったことだと話し合っていました。
やがて、藩の役人が実情調査に来ることになりました。
伝助はまず奥迫の川筋を上り、丘の上から穂の出ない田んぼを見せ、「これ、このとおりの被害でございます。なにぶんにもありがたきご配慮を。」と、頭を下げました。
次に往還へ下り、棯薮のところから田んぼを見てもらいました。
「この地区も、この通りで、ひどいものでございます。」
しかし、役人の目をごまかすことはできませんでした。
「これ伝助、お上の目をなんと心得ておる。ごまかして、さっきの田んぼを見せたことぐらいわかる。不届き者め。いずれ何分の沙汰があろうぞ。」役人は立腹して早々に引き揚げていきました。
やがて藩から伝助に「死罪」の申し渡しがあり、丸山墓地で打ち首になりました。
その首は伊陸川(由宇川)と日積川との合流点の三角藪に、ひしゃくの柄に刺してさらし首にされました。
人々は余りのことに嘆き悲しむとともに、藩の仕打ちに恐れおののきました。

由宇川と日積川との合流点
由宇川と日積川との合流点

ある夜、伝助の首は何者かに持ち去られました。
犯人は分かりませんでしたが、しばらくして岡畷の山の中に小さな祠ができました。
「あれは伝助さあの墓じゃけえ、触るとたたるど。」といううわさが流れました。
その祠は、役人の目を恐れた村人が、ひそかに伝助の霊をまつったものです。
その後、大原地区では、百姓の犠牲になった伝助の死を悼み、古くなったり、使えなくなってもひしゃくの柄は決して粗末にしなかったといいます。
今も岡畷の雑木林の中に、義民伝助の祠はひっそりと鎮座しています。

義民伝助の祠 ご案内

平成19年(2007年)3月18日、一時忘れられ、荒れ果てた伝助の祠を修復しました。
日積ふるさと勉強会及び伝助顕彰会が崩壊した石の祠を修復整備のため整地作業をしたとき、墓石とみられる石と、その下位に壊れた土師器の骨壺、中に寛永通宝3枚、内面に赤色塗料を施した薄手の燈明皿1枚が出土しました。
土師器の骨壺には、墨書で「照士霊宝神道」「三文三行三界加持」「袖遍」「刀祢」「内侍」「承誉獻丁霊神」と、六行にわけて記述されていました。

義民伝助の祠までの道案内

義民伝助の祠までの道案内

(【4】~地蔵堂までは幅員狭小のため、🅿で駐車して徒歩移動を推奨)
(ふれあいどころ437から約2km)

【1】ふれあいどころ437の出口から左折。

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を右折し、国道437号玖珂方面へ。

2車線、約1,300m

【3】下り坂の後、大原橋を渡ると、案内標識あり。柳井方面へ左折し、県道68号へ。

1車線、約300m

【4】大原バス停、横断歩道を過ぎ、右折。

1車線(幅員狭小)、約200m

【5】地蔵堂に到着し、標柱から歩いて登る。

徒歩道、約160m

【6】義民伝助の祠に到着する。