北方代官屋敷跡

【音声読み上げ】


柳井市日積7399番地2付近

日積は、中世の早い頃から大内氏の所領となり、北方と南方に区分され、代官もそれぞれ居住していたようです。
北方代官屋敷は、観光ぶどう園の広がる市原の台地にあったといわれています。
台地は、河岸段丘の形成によりできたものといわれ、要害の地となっています。
地元の伝承では、高井氏宅付近が北方代官屋敷跡とされています。
付近からは、畑の耕作中に陶磁器片が多数採集されました。
調査したところ、中世の焼き物のかけらや朝鮮や中国の焼き物、山口の大内氏館と同じ古瓦などでした。

永田秘録76杉隆泰杉英勝家証文写(山口県文書館蔵)
永田秘録76杉隆泰杉英勝家証文写
(山口県文書館蔵)

「永田秘録」によると、大内氏第12代当主の大内持世は、永享4年(1432年)4月2日に日積北方のうち50石の地を杉治部丞頼明にあてがっています。
ここは昔、玖珂から大畠に至る街道が通り、交通の要衝でもあったことから、旅人をねぎらう茶屋もあったそうです。

永田秘録解読
六部の墓
六部の墓
六部の墓
「奉納日本回国寶塔」と刻む

観光ぶどう園のぶどう棚の広がる台地日積市原は、昔には近郷を結ぶ交通の要所でした。
この台地の、若杉から上がった道のそばに、珍しい墓石がひっそりと立っており、六部の墓といわれています。
六部とは六十六部のことで、諸国を巡礼し書写した法華経を、全国六十六ケ所の霊場に一部ずつ納めて行脚する僧のことで、この僧がここで亡くなったのではないかと思われます。
旅人が憩うた茶屋跡の所に、ズイズイ(学名シャシャンボ)の大木が立っています。
胴回り2メートル9センチもあり、西日本では最も大きいといわれています。
また、この台地に日づめ(月末)の市がたっていたので、この台地を日積市原と呼ぶようになり、日積の地名になったという説もあります。

玖珂郡志
享保増補村記附図(岩国徴古館蔵)
享保増補村記附図(岩国徴古館蔵)

北方代官屋敷跡までの道案内

北方代官屋敷跡までの道案内

(ふれあいどころ437から約3.1km)

【1】ふれあいどころ437の出口から左折。

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を右折し、国道437号玖珂方面へ。

2車線、約300m

【3】押ボタン式信号と明教寺のある交差点を左折。

2車線、約800m

【4】突き当たりを左折し、県道151号を大畠方面へ南下する。

2車線、約1.1km

【5】日積小学校手前で右折する。

2車線、約300m

【6】斜め右方向に入り、坂道を上る。

1車線、約400m

【7】台地になり、ぶどう園が広がってきたところで右折する。

1車線、約100m

【8】北方代官屋敷跡に到着する。