南方代官屋敷跡

【音声読み上げ】


柳井市日積582番地付近

中世に大内氏が日積を支配していた頃は、南方と北方に代官がいたようで、その屋敷跡の記録が『玖珂郡志』にあります。
また、『永田秘録』に、杉重茂日積南方代官職宛行状が残っていますが、どの系統の杉氏かは分かっていません。

玖珂郡志

元柳井図書館長の谷林博氏によると、代官杉甲斐守屋敷跡が、鍛冶屋原の川角に残り、甲斐守は大内氏に従って、広島、五日市、石道城番として、安芸の武田氏と戦って討ち死にしたということですが、甲斐守の実名や系譜は明らかになっていません。
医家、高井家の屋敷跡が残っており、代官屋敷跡ともいわれていますが、別の説もあります。
この地の古い地名は「市ノ原」ともいわれ、市場があったとか、大鍛冶屋が居たこと等は、ここの代官との関係も考えられます。

南方代官屋敷跡から見た琴石山
南方代官屋敷跡から見た琴石山

平成14年(2002年)、市道拡幅工事に伴い一部が発掘調査され、南側に土塁・土留の石積、排水溝、野外のかまど、風呂の基礎部の石組、掘立柱の建物跡、館が3段に整地された跡、掘立柱の北門跡、北側に土塁とその外側の築地の柱穴列、土塁を貫通する暗渠排水溝が確認されました。
館の推定規模は南北・東西とも約80m。
東西北の三方を急勾配な崖で囲まれていて、自然の要塞で守られていたと考えられています。

発掘調査結果の概要

発掘調査結果の概要

館の北門跡(南から)
館の北門跡(南から)
柱間の梁行各210㎝、桁行各180㎝
館の北門跡(北から)
館の北門跡(北から)
北端の土塁(幅約6m、高さ約50cm)・外側の築地跡・排水溝(東から)
北端の土塁(幅約6m、高さ約50cm)・外側の築地跡・排水溝(東から)
石組み遺構(東から)
石組み遺構(東から)
石組み遺構(南から)
石組み遺構(南から)
館の南端の土塁(幅約4m、高さ約50cm)・石積み・排水溝(東から)
館の南端の土塁(幅約4m、高さ約50cm)・石積み・排水溝(東から)
永田秘録76杉隆泰杉英勝 家証文写(山口県文書館蔵)
永田秘録76杉隆泰杉英勝
家証文写(山口県文書館蔵)
永田秘録76杉隆泰杉英勝 家証文写(山口県文書館蔵)

参考文献:
松岡睦彦「柳井市日積所在の杉氏館跡について」『山口考古』第22号 2002年(写真引用)
山口県教育委員会『山口県中世城館遺跡総合調査報告書周防国編』 2018年

南方代官屋敷跡までの道案内

南方代官屋敷跡までの道案内

(ふれあいどころ437から約4.5km)

【1】ふれあいどころ437の出口から左折。

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を右折し、国道437号玖珂方面へ。

2車線、約300m

【3】押ボタン式信号と明教寺のある交差点を左折。

2車線、約800m

【4】突き当たりを左折し、県道151号を大畠方面へ南下する。

2車線、約1.1km

【5】日積小学校が見えたところで左折する。

2→1車線、約1.9km

【6】「教徳寺」の案内石標を過ぎ、橋を2つ渡り、カーブにある交差点で斜め右に入る。

1車線、約200m

【7】坂道を上り切ると、北方代官屋敷跡に到着する。