小瀬上関往還 鍛冶屋原一里塚跡

【音声読み上げ】


柳井市日積533番地

里程の目安となる一里塚は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、西国街道(山陽道)を経て九州の肥前名護屋までの道筋に、一里(約4km)ごとに塚を設けたのが有名です。
江戸時代になって、諸国の街道筋に普及し、並木も植えて、旅行者の便を図りました。
慶長9年(1604年)に徳川氏は、江戸の日本橋を起点として全国に一里塚を築かせました。
一里塚は、旅人にとって里程の目安となりました。
特に夏の暑い日ざしには、一里塚の木かげは旅のオアシスともなりました。

享保増補村記附図(岩国徴古館蔵)
享保増補村記附図(岩国徴古館蔵)

日積地区には、大原の丸山と鍛冶屋原にありましたが、塚は残っていません。
『玖珂郡志』に次のように記載されています。
一 日積。大原、行バ右。小瀬ヨリ七里、上関ヨリ八里、岩国ヨリ五里。
一 同。鍛冶原、行バ左。小瀬ヨリ八里、上関ヨリ七里。

日積村地下図(山口県文書館蔵)
日積村地下図(山口県文書館蔵)

瑞相寺文書『御止宿之記』によると、天明6年(1786年)、岩国領主の吉川経倫が、萩から岩国の帰路、柳井の瑞相寺に2泊しました。
閏10月29日午後1時頃、瑞相寺を出発し、江の浦から船で岩国へ帰る途中、大畠瀬戸で北東の風が強く吹き出したため、大畠に午後6時頃上陸し、日積を通って通津に午後11時頃到着しました。
翌30日船で今津に向かい、11月朔日に岩国に到着しました。
お供を含め300人余りが暗い中提灯を持ち、一里塚の前を歩いていることを確認しながら、日積を進んでいったのではないかと思われます。

日積地区の小瀬上関往還をたどる

日積地区の小瀬上関往還をたどる

小瀬上関往還 鍛冶屋原一里塚跡までの道案内

小瀬上関往還 鍛冶屋原一里塚跡までの道案内

(ふれあいどころ437から約4.9km)

【1】ふれあいどころ437の出口から左折。

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を右折し、国道437号玖珂方面へ。

2車線、約300m

【3】押ボタン式信号と明教寺のある交差点を左折。

2車線、約800m

【4】突き当たりを左折し、県道151号を大畠方面へ南下する。

2車線、約1.1km

【5】日積小学校が見えたところで左折する。

2→1車線、約1.9km

【6】「教徳寺」の案内石標を過ぎ、橋を2つ渡り、カーブにある交差点で斜め右に入る。

1車線、約500m

【7】坂道を上り、大師堂手前で左折。

1車線(幅員狭小)、約100m

【8】右手に墓地があり、一里塚跡に到着。