(伝)日積八幡宮の宮石

【音声読み上げ】


柳井市日積776番地2付近

天平宝字元年(757年)、宇佐神宮(大分県)からこの宮石のある宮ヶ原に日積八幡宮が勧請され、翌年(天平宝字2年(758年))に創建されたと伝えられています。
天平宝字年間の主な出来事として、
・天平宝字元年(757年)養老令を施行
・天平宝字3年(759年)大伴家持が万葉集を編纂
などがあります。
平成20 年(2008年)に挙行された1250 年祭の折、棯薮の山本孝氏が宇佐神宮に赴き、日積八幡宮の勧請記録があることを確認されています。
なお、石清水八幡宮(京都)の名前も同時期に確認されています。

宮石

日積八幡宮は、大内政弘の時代(寛正3年(1462年))に、大里の現在地に遷宮されました。
途中の行幸の峠を宮ヶ峠(みやがとう)、一時休んだ場所を休守(やすもり)、神輿を置いた盤石を神輿掛の石というと『玖珂郡志』に記載があります。
また、「氏子境ノ証文ニ、安芸ハ大竹川ヲ限、沖ハ八代島、下ハ椿ケ峠。」との記載もあります。
日積八幡宮(大帯姫八幡宮)には柳井市指定文化財に指定されている棟札10枚があり、室町時代から江戸時代を経て、明治に至るまでのお宮の建て替え、増改築等の記録や、当時携わった関係者の名前を今に伝えています。

大帯姫八幡宮の棟札10枚(市指定有形文化財)

応永31年(1424年)から明治11年(1878年)までの10枚の棟札で、すべてが大帯姫八幡宮の棟上・修理・屋根の葺替などに関係するものです。
10枚の棟札のうち、「日積八幡宮」または「日積村八幡宮」が「大帯媛八幡宮」となるのは、享保7年(1722年)の棟札以降であり、その後いつのころからか「姫」の字を充てるようになりました。
中世における代官職杉氏や、鍛冶屋原に居住した鍛冶職初右衛門秀久(応永31年(1424年)、神衛門秀久(元亀2年(1571年))、神左衛門(天正3年(1575年))などの存在を伝える唯一の資料です。
また、近世の5枚の棟札においても、日積統治の実態が明らかにされる貴重な資料です。

大帯姫八幡宮の棟札

日積八幡宮の宮石までの道案内

日積八幡宮の宮石までの道案内

(ふれあいどころ437から約5.5Km)

【1】ふれあいどころ437の出口から左折。

1車線、約100m

【2】横断歩道のある交差点を右折し、国道437号玖珂方面へ。

2車線、約300m

【3】押ボタン式信号と明教寺のある交差点を左折。

2車線、約800m

【4】突き当たりを左折し、県道151号を大畠方面へ南下する。

2車線、約1.1km

【5】日積小学校が見えたところで左折。

2→1車線、約1.9km

【6】「教徳寺」の案内石標を過ぎ、橋を2つ渡り、カーブにある交差点で右折する。

1車線、約550m

【7】鍛冶屋原公会堂、南方代官屋敷跡(杉氏館跡)を過ぎ、急な下り坂が始まる直前のカーブミラーで右折する。

1車線、約50m

【8】「中世大鍛冶屋遺跡」の標柱があるところを左折する。

1車線、約200m

【9】突き当たりを右折する。

1車線、約500m

【10】橋を渡り、曲がりくねった上り道を道なりに進むと、右手に「日積八幡宮の宮石」標柱が見える。