観音堂
《観音堂》
中院地区のほぼ中央にある観音堂は、往時の禅寺智音院の跡の名残といわれています。いま、行政面では中院と表記していますが、本来の地名は智雲院です。禅寺の智音院(又は知恩院)があったことから地名となり、智雲院と変化してきたものでしょう。
『古村記』(1668年、岩国藩最古の地誌)に、「大里ニ知恩院ト云ウ禅寺ノ跡アリ、ココニ今観音堂アリ」とあり、『享保増補村記』(1726年)には大里の小名として「…殿垣内、平原、知恩院…等」があります。大内氏の時代、日積村は直轄領地で、重臣の杉氏に代官職を命じています。室町時代の古文書『正任記』には、「筑前博多に在陣中の大内政弘へ陣中見舞いとして、日積村の知恩院(杉豊後弘重息女弘英姉)から文明10年(1478年)10月24日に300疋を進上している」とあり、当時の知恩院は、重臣の一族の息女が入山するような由緒ある寺院であり、資産もあったことが伺えます。その寺もいつしか衰え、『玖珂郡誌』(1802年岩国藩編)には観音堂として記載されていて、「此ノ所、禅宗恵光山智音院ト申シ伝ウ云々…本尊、木、立、作知ラズ」とあります。