やない



◎[柳井市]
歴史的環境=柳井市の歴史は、縄文時代にさかのぼり、北部山間の盆地と南部の熊毛半島沿岸に諸遺跡が散在している。東側沿岸の黒島浜遺跡と与浦遺跡は、満潮時海水面下に遺跡が沈むことから、本地域の地盤変化の指標として注目される。弥生時代の主な遺跡としては、吹越遺跡がある。熊毛半島の急峻な屋根筋に立地する高地性集落で、周防灘から安芸灘、伊予灘、九州北部までも遠望でき、防衛目的をもって設営されたものと考えられ、当時の緊張した社会状況がうかがえる。
さらに、柳井市西部低地に隣接する、田布施町大波野に立地する明地遺跡は、弥生時代中期から古墳時代中期まで営まれた県下最大級の集落遺跡である。古墳時代になると、古弥生水道-現在の柳井市、田布施町、平生町の低地一帯-に臨んで、首長級の墳墓が多数確認されている。県下最古の築造の国森古墳、茶臼山古墳、白鳥古墳、阿多田古墳、神花山古墳、納蔵原古墳、後井古墳等がある。なかでも茶臼山古墳は、最初に畿内型の規格で築造されたもので、直径44.8cmの大鏡を副葬しており、畿内勢力との関係をもっていたことがうかがえる。その後も強大化する熊毛郡権力は、養老5年(721)、熊毛郡を割いて玖珂郡を設置したことからもうかがうことができ、その時代の遺跡として八和田廃寺、中村廃寺、濡田廃寺が建立されていた。荘園が置かれた時代には、楊井庄・新庄・伊保庄等が存在し、国衙領として与田保が置かれていた。これらの荘園や国衙領は、現在も地名として一部に残存している。室町時代になると、柳井津は大内氏の支配下に置かれ、海上流通の発展にともない、鋳物などの手工業も繁栄した。江戸時代になり、柳井津は岩国藩吉川氏の所領となった。木綿や菜種油の集産地となり、[吉川の御納戸]とよばれ、豪商が軒を連ねた商都として栄えた。柳井津は、維新後も明治・大正・昭和の各時代に県南東部の中心的な商業都市として繁栄してきた。
◎ [源平瀬戸内海絵巻]
○[屋島から壇之浦までの空白の一カ月]
今から約820年前に行われた源平合戦。そこには、謎に包まれた部分がある。屋島の合戦から源平最後の合戦となる壇之浦までのおよそ一カ月の期間である。[吾妻鏡]によると、瀬戸内海における三合戦として、屋島、壇之浦とともに[周防国合戦]が記されている。一の谷で敗れた平知盛(とももり)が源氏の追撃に備え、室津半島から上関海峡に拠り、壇之浦までの途中の守備としたと考えられている。
[知られざる周防国合戦]
山口県の南端に突き出す室津半島。半島を縦横に走る室津半島スカイラインに沿っていくと、波穏やかな瀬戸内海と多島美が織り成す、やすらぎの風景に出逢うことぎできる。実はこの穏やかな風景の中に、周防国合戦に関するいくつかの史実が秘められている。そのひとつが、皇座山東南麓の池の浦(現柳井市)である。[防長風土注進案]によると、平氏が池の浦に船を乗り入れて隠れていると、帆柱の上のカモメが鳴き、源氏の軍勢に見つかって多くの戦死者を出したと記されている。また近辺には、大量の刀剣が発掘された勝負ケ迫をはじめ、平家坂、平家神社、陣屋などの地名が残り、古戦場としての足跡を数多く残している。
また最近の発掘調査では、柳井市から熊毛郡田布施町にかけて、かってあった柳井水道の姿が確定している。当時の海水面は今より約10m高く、兵船はおそらくこの海峡を通ったと推測される。[1185年3月21日、大雨に妨げられ一日延期した義経は、いよいよ壇之浦へと進発の準備をしていた。そこへ三浦義澄が参陣し、23日総勢八百余艘の船が、周防国大島津から壇之浦へと向かった。一方、源氏の水軍が接近したことを知った平家も、23日の夕刻に行動を開始する。総勢五百余艘、知盛がこれを指揮して彦島の本営を発し、急潮の早鞆の瀬戸を抜け、流れのゆるやかな豊前国田ノ浦沖へ集結した。いよいよ明日は決戦の時。源平の命運をかけた壇之浦の戦いへと進む。]

◎【本 周東歴史物語】柳井周辺今むかし。

p104【まぼろしの池の浦合戦】p108建武の中興(1334)の2年前長門の探題、北条時直が伊予に渡って南朝方の土居通増、得能通綱と戦って二度とも敗れたが、その時、時直に従った楊井父子も戦死したという。楊井氏は楊井(現柳井)を本拠としていた豪族であった。大内義隆が中国大陸と貿易をするための遣明船を出した時、その警護役として柳井郷直が同行したのが、1547年で、彼の書いた【大明譜】に【郷直は天竜寺の僧策彦に随行す。この船天文16年2月21日山口発船。これらの船は長さ23ヒロ、帆柱13ヒロ】とあり、このほかに船員の氏名、積んだ荷物の数量、海賊と戦ったことなどを書いている。この翌年、大内義隆が陶晴賢に殺されて大内家は滅亡し遣明船も廃止された。楊井氏はこの後陶晴賢に属したが、毛利元就と大決戦、厳島合戦に陶方の水軍として宇賀島海賊らと共に出陣し、毛利方水軍に敗れて歴史の上から姿を消してしまった。
P109楊井という地名については、【楊は枝が上を向くので、岩国藩主に遠慮して枝が下に垂れる柳に変えた(神田継治)とか、【刀剣古文書研究】(藤田誠二)には、【13世紀から17世紀までの頃、楊井荘住の刀工師の銘があるし、楊井津と書いた文書がある】とあり、代田八幡宮の楼門が吉川藩命によって、岩国の実相院へ移されたが、その楼門に【楊井】の彫刻がある。また光台寺の山門は中国風であるが、海外貿易に活躍した楊井氏の居宅の遺物ともいう。】
この頃の周防の海賊衆には、海賊大将軍源芸秀(大畠)、鎌刈義就(上関)、藤原朝臣尾野正吉(上関)、神代兼高(神代)、由井(由宇)、大浜(大島)、服部(大島)、光井(光、光井)などがあり、海を相手に生きた人々であった。楊井氏が残した貿易の伝統は、後半の【柳井商人】に受け継がれていったものである。
◎【柳井、文化遺産】国指定文化財6件、県指定8件、市指定27件がある。国指定の主なものに天然記念物余田臥竜梅、史跡茶臼山古墳、重要文化財国森家住宅がある。古市、金屋には室町期の町割りを受け継ぐ江戸期の商家の町並みが残っている。昭和59年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、商家造りの典型である国森家住宅は、文化庁の指導の下に半解体修理および正面の復元が行われた。県指定のもとに、有形民俗文化財小田家の生活用具、商家資料、無形民俗文化財阿月の神明祭、天然記念物池の浦の連理カエデ、有形文化財阿月無動(むとう)寺の木造不動明王坐像、平郡浄光寺の木造薬師如来坐像などがあり、市指定文化財としては天然記念物高山寺の大モクセイ、史跡浦氏居館旧表門、有形文化財金剛寺の宝篋印塔、割石の石造延命六面地蔵菩薩、有形民俗文化財土穂石の石風呂、無形民俗文化財伊陸の糸あやつり人形芝居なでがある。
【観光】国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている古市、金屋の【白壁の町】が柳井観光の中心をなす。国指定重要文化財国森家住宅や県指定小田家住宅【むろやの園(その)】などがあり、後者は柳井民俗資料館として公開されている。金屋東端の湘江庵(しょうこうあん)に【般若姫伝説】と柳井の地名にまつわる柳と井戸がある。東後地(ひがしうしろじ)の光台寺は唐風の山門をもち、通称【わんわん寺】と呼ばれる。22歳の国木田独歩の散策地で、境内に石碑が建つ。独歩の柳井での生活をモチーフとした作品に【少年の悲哀】や【置土産】などがある。標高545mの琴石山は登山道が整備され、山頂からは360度の視界が得られ、瀬戸の島々や遠く四国を眺望できる。稲荷山は桜の名所。三ケ獄憩いの森キャンプ場、黒島海水浴場、日積観光ブドウ園、日積および伊陸のゴルフ場、カートランド、平郡島周辺の釣り、阿月の神明祭、柳井天神祭、ふるさとフェスタ、柳井祭などがある。土産には甘露醤油、三角(みかど)餅、郷土民芸金魚提灯がよい。柳井は山口県と四国を結ぶ広域観光ルートのきち、また【サザンセト】広域観光ゾーンのマリンリゾートとして発展が期待されている。
【市章の由来】【ヤナ】の文字を図案化したもので、中央の槍先は向上を、円は平和、波は瀬戸内海の港湾を表す。

○「古市・金屋町」柳井市大字柳井津 古市・金屋。
津町の中心地、柳井川に沿って開かれた商業の一拠点。古市は早くから市が立ち、「玖珂郡志」によれば柳井市として1日、5日、8日、13日、17日、22日、25日、27日に開かれていたことが記される。また金屋には鍛冶屋が多く享徳3年(1454)廿日市の鋳物師三郎次郎の、金屋の面々に対する、伊保庄賀茂神社の洪鐘の注文に応じて商権を犯したことについての詫状がある(小田甲子郎文書)。これによって中世、鋳物師が集団で居住していたことが判明する。町通は長さ約200m、東西にやや湾曲して両側に妻入・切妻造、壁軒裏を塗り込めた商家が建ち並び、商業の中心地であった頃の面影を残している。屋根は桟瓦葺が多いが、本瓦葺もかなり残されている。切妻の商家には袖壁はないが入母屋には両側に袖壁をうけている。古い建物には風聴という板戸がはめられている。建築年代の文献的に最も古いのは金屋の小田家で、宝暦3年(1753)の建築。多数の生活用具・商家資料があり、民俗資料館(むろやの園)となっている(県指定有形民俗文化財)。同じく金屋の国森家(重要文化財)は明和6年(1769)の建築で、上層の屋根を入母屋造にして本瓦葺、漆喰で塗り込めている。
○「黒島浜遺跡」柳井市大字伊保庄黒島。
熊毛半島東岸の入江に位置し、県道室津ー柳井線に沿った、標高零m以下の汀(てい)線付近から縄文時代の遺物を出土する海底遺跡。阿月の与浦遺跡と類似の性格をもつ。昭和51年(1976)柳井港海岸保全施設整備工事中に発見され、緊急調査が行われた(「黒島浜遺跡」1977年)。
出土遺物には縄文中期・後期の土器が圧倒的に多いが、前期・晩期の土器も若干混在。中部瀬戸内系の土器が主体で、前期は一部九州系が混じり、後期後半になって九州系が量を増す。これら土器様式の変遷は、この地の漁労・狩猟民の縄文時代における生活文化圏の推移を物語り、与浦遺跡とともに安芸灘造盆地運動に伴う地殻変動の立証のうえでも重要な遺跡である。
○「浦氏屋敷跡」柳井市大字阿月。
阿月の海岸にあり、毛利家の重臣浦氏の邸宅跡。芸州沼田(ぬた)「現広島県三原市」の小早川家の一族、小早川宣平の7男氏実は豊田郡浦郷(現広島県)を領して浦氏と称した。氏実から7代目が忠海(ただのうみ)「現広島県竹原市」の鍵城城主浦宗勝である。その子景継の時、小早川家が断絶、柳井村の馬皿に浪居した。この時吉川広家の推挙で毛利輝元に任官、2000余石を与えられて上関に住した。景継の孫就昌の時、阿月に移封、毛利氏の重臣として元敏・房伴・ゆき負らは家老職に任じられた。本宅・文武堂・米倉・槍術場などがあったが、阿月小学校の開設によって他に移され、学館克己堂の門(市指定史跡)のみが残る。門と並んで明治維新の阿月志士の碑がある。

○「賀茂神社」柳井市大字伊保庄近長。
祭神は玉依姫命・別雷命・三毛入野命。旧郷社。→「注進案」によれば、寛治元年(1087)年に山城国下鴨社(現京都市左京区から)勧請、祀ったのに始まると伝える。享徳元年(1452)大内氏から神田を寄進された。
永禄6年(1563)8月、小早川隆景・小河与三右衛門・児玉内蔵之丞就方によって社殿に神像三体が安置された(注進案)。毛利氏が八カ国を領した時代に、改めて神田一町三反余と定められた。近世以前は賀茂神社の総宮司職に佐賀村東光寺(現熊毛郡平生町)があたり、のちに阿月の無動寺がこれに代わった。また神主職は脇村・藤井両氏があたり、その抱社であった。近世には、社領は境内9反1畝、社地2反6畝28歩、田8畝であった。
○「与浦遺跡」柳井市大字阿月与浦
熊毛半島の東岸に位置する遺跡で、満潮時には海面下となる。縄文時代と古代の遺物散布地や包含層が広がる。同様の縄文遺跡はこの半島の両岸や付近の島輿の海岸にみられる。昭和46(1971)に発見され、同48年に発掘調査が行われた(「与浦遺跡)山口県埋蔵文化財調査報告書・第27集、1973年)
出土遺物は縄文後期の土器が圧倒的に多く、前期・中期・晩期の土器が微量混じる。中部瀬戸内系の土器がほとんどを占め、後期・晩期に九州系がわずかに混在する。出土した石器類のなかには、大小の石錘のほか若干の石鏃・石斧・石匙などがあり、縄文時代この地に漁労・狩猟を営む集落があったことがうかがえる。この遺跡も安芸灘造盆地運動に伴う地盤変動を立証する遺跡として重要である。
○「瑞相寺」柳井市大字柳井津土手。浄土宗。放光山と号し、本尊阿弥陀如来。「玖珂郡志」によれば、永正元年(1504)法誉祐西が宇治平等院より西下し、柳井川の河口に寺を開いたのに始まる。その後、慶長年中(1595-1615)吉川氏が城下町を建設するにあたり、柳井津から商家の一部が城下の錦見に移住したが、瑞相寺もともに移転した。しかし当地の檀家は承服せず、本尊・脇立の二菩薩を引き取り、新たに瑞相寺を建立した。両瑞相寺では本末について論争が生じたが、吉川広正は本山さえ異議がなければと、知恩院へその趣旨を伝え、両寺とも直末となった。
貞享3年(1686)10月、柳井津の商人貞末新五郎の未亡人は、境内の釈迦堂において夫婦菩提のための常念仏を発起。米130石、銀7貫800匁を岩国の蔵元に預け、その年利息を受けて費用にあてた。これを「新五郎回向」といい、柳井の年中行事の一つとなった。近世には、末寺27ケ寺を抱え、浄土宗寺院の触頭であった。

○「新庄村」柳井市大字新庄
東は柳井・古開作、西は余田、南は宇佐木(現熊毛郡平生町)の各村に接する。北部の大平山(314m)、南の赤子山(330.6m)両山の麓の間に平地が広がる。岩国藩領柳井組に属した。新庄の名は、「正任記」文明10年(1478)10月23日条に「防州楊井新庄」とみえるのが早い。村内にある積蔵(しゃくぞう)寺の文書に、永禄6年(1563)2月16日付、天正5年(1577)1月24日付の毛利元定・毛利元政の安堵状があり、新庄は毛利氏の知行であったことがわかる。柳井組の代官所は初め当村に置かれ、津町の発展に伴って承応3年(1654)柳井の姫田に代官所を移した。寛文5年(1665)土穂石川の上流、余田村にかけての堀川の完成によって開拓が進んだ。村名は楊井本庄に対する新庄の意で、慶長15年(1610)の検地帳によれば、新庄、田尻(現玖珂郡周東町)として合石記載され、田面積160町余で石高1959石6斗余、畠面積36町2反余で石高143石3斗余、総石高は2373石6斗余であった。元禄12年(1699)の郷帳で新庄村と記される。「玖珂郡志」には新庄村は石高2496石余とあり、慶長15年の田尻村との合石高よりも多く、新田開発が進んだことが知られる。庄屋は岩政家が世襲し、刀禰四人、組頭六人の村役人がいた。産物として玖珂郡志には「水越木綿トテ賞翫ス」とある。村域内には土穂石八幡宮、曹洞宗の「ごんけい寺」・積蔵寺・良照寺・浄土真宗本願寺派の高林寺がある。また奈良時代の濡田廃寺跡がある。
○「濡田廃寺跡」(柳井市大字新庄濡田)大平山の南山麓にあり、小字名をとって濡田廃寺というが、正式の寺名は不明。明治34年(1901)頃発見され、鎮守堂を建てて出土品を祀っていたが、出土品は現在は個人蔵。付近の水田から柱の心礎も発見されたという。濡田付近からは多数の古式の布目瓦を出土。付近の字安行(やすゆき)からこの瓦を焼いたと思われる窯跡が発見されたが、山崩れで流出し現存しない。奈良時代期頃建立された寺と推定される。出土品は和銅開ちん12枚、多角形有孔の無文銅銭10余枚、四角形無文銅銭200余枚、長方形に近いもの10余枚、同じく銅ワンの破片のごときもの6枚、ほかに金属片数枚で、発掘当時はそれらが8個の素焼製丸底壷に分蔵されていたが、現存の壷は4個である。このほかに鉄器の破片と刀破片や鉄ぞくの破片が伴出したと伝えられる(「山口県文化財概要」第一集・1952年、「柳井市史」各論扁・1964年)。これらのうち和銅開ちんは当時通用の官銭であるが、他の土銭・無文銅銭などはいずれも偽銭で、私銭および宗教的儀礼用と思われ、いずれも上代貨幣制度の研究上貴重な資料である。
○代田八幡宮「柳井市」
旧柳井町の総氏神であった代田八幡宮は、柳井を代表する神社である。
創建は天長10年(833年)と伝えるが17世紀、大火に遭い文書、記録類を焼失したので勧請年月は分からない。神官家の伝承によると「遠石八幡宮と同年の勧請」とある。9世紀、宇佐八幡宮は神威拡張の時代にあり、宇佐地方と交流が活発だった柳井地方に宇佐信仰が入っていたのはむしろ当然かも知れない。三浦家文書(1360年)に「八幡宮神田1丁9反」とあるので南北朝時代すでに鎮座していたことは立証できる。
最初の鎮座地は、黒杭の現大歳社の社地だったが、その後現在地に移した。一説に西方2、3町の神和というところに移し吾田八幡宮などと称したのを、さらに現在地に移して改称したともいう。天文3年(1738年)正一位になり一の鳥居に額が掲げられた。
この鳥居は花崗岩製で高さは4.3m。上部の笠木は一つの石で作られ、重厚で姿が美しい。柳井市有形文化財に指定されている。
慶安2年(1649)社殿が炎上、旧記など失うがご神体は無事だった。明治、大正期にも羅災するが、火は神殿に及んでいない。現在の社殿は、大正13年(1924)の再建である。
境内には柳井正風美濃派俳諧7世宗匠、秋岡庵紅雨の句碑もある。
神幸で珍しいのは「地頭代行列」が加わることで、楊井庄の代々の地頭が供したのであろう。この祭には「イチメン(斉女)」と称する少女が御輿の脇に侍することになっている。○ 毎日新聞「昭和47.11.2」
坊ちゃんのモデル
弘中先生の写真みつかる
「柳井」夏目漱石の名作”坊ちゃん”のモデルといわれる弘中又一先生の写真が、このほど山口県柳井市柳井小学校で見つかり、12月3日から開かれる柳井祭の行事
の一つ”教育の歩み展”で公開される。
弘中先生は、徳山市湯野の生まれで、同志社大学を卒業。明治27年から明治28年まで、柳井小学校で代用教員をしたあと”坊ちゃん”の舞台である四国の松山市
の松山中学に転任した。同校で漱石と知合い、小説のモデルとなった。

○ 柳井市日積の南大原遺跡からへビを模したような縄文時代中期(約6千年前)ごろの装飾土器片が出土した。山口県内でのヘビ状土器出土は珍しく、その土器に縄文人の信仰の一端を垣間見た▼土器片は波状の口の部分に穴を取り囲むように浮き彫りされている。ほかに縄文中期特有のすりけし文様の土器片や土偶の口らしい円形の土器片も出土した。県内には縄文中期の遺跡は多いが、ヘビを模した土器は見つかっていない▼古来から毒を持ち、脱皮を繰り返すヘビは魔性の動物、不死再生のシンボルとして崇拝されてきた。信州や関東では縄文中期のヘビ装飾土器やヘビを頭に乗せた土偶が多く出土するが、民俗学者の故谷川健一氏はそのころみこが出現した神観念の黎明(れいめい)期と指摘された▼その痕跡が『隋書倭国伝』に残る。推古帝のころ、うそをついた疑いのある場合、ヘビを入れたかめに被疑者の手を突っ込ませて潔白を決める神判制度があったのだ。沖縄の石垣島には神女たちが集まってハブを手渡しながら心の良し悪しを定める儀式があったという▼南大原遺跡の現地説明会が13日午前11時から開かれる。この機会に現代人が忘れかけている古代人の信仰に触れてみては。
(長)2016年2月10日(水)掲載
○2016(平成28年)0129(金)山口新聞=縄文土器片ヘビの装飾。柳井の遺跡で確認。古墳期の建物群も。=柳井市日積の南大原遺跡で、縄文時代中期(約6000年前)とみられる、ヘビを模したような装飾土器片が見つかった。市教委によると、このような装飾土器は山口県内では珍しいという。松島幸夫文化財指導員は[ヘビを模したような縄文土器は海岸部にある与浦遺跡の土器とは違い、東日本の縄文文化の影響がうかがえる。大型竪穴建物跡は集会用に使われたのかもしれない]と話している。

○[柳井市①]当市域は、律令制下には周防国玖珂郡・熊毛郡・大島郡に属していた。[和名抄]に見える玖珂郡伊宝郷は当市伊保荘に比定されている。また与田保は当市余田に比定され、1182(養和2)年の野寺僧弁慶申状案によれば、僧甚与が与田保の公文職であったことがわかる。中世に入ると立荘の時期は不明であるが、当市域に楊井荘が成立している。
○[柳井市②]大内氏の支配=当市の柳井津には金屋という地名が残っているが、中世の柳井津は鋳物師集団の居住地であった。1454(享徳3)、安芸国廿日市(広島県)の鋳物師である三郎次郎は、楊井金屋の面々に対し、伊保荘賀茂神社の釣鐘の注文に応じたことに対する詫状を出している。応仁の乱にあたり、大内政弘は1467(応仁元)年大軍にて楊井から乗船し、兵庫へ向かった。また1500(明応9)年には、前将軍足利義伊(義植)が山口の乗福寺へ行く途中で楊井津に投宿している。当市は中世には、大内氏の支配下にあったが、なかでも楊井津は良港として知られ、大内氏水軍の根拠地でもあった。
○[柳井市③]商都柳井の発達。=江戸時代の当市は、海運を利用した瀬戸内海屈指の商都として発達し、岩国藩の御納戸といわれた。その商圏は岩国領内はもとより、西は大阪、南は九州一円にまでおよんだ。中心街は柳井津の古市・金屋地区で、今日もなお白壁の美しい街並みが残り、国の重要伝統建造物群保存地区となっている。
○[柳井市④]商都柳井が扱った主な産物には、末貞新五郎らの柳井木綿(柳井縞)、小田六左衛門・守田旁通(まさみち)らの灯油・ろうそく・びんつけ油、高田伝兵衛らの柳井醤油(甘露醤油)、神田幸七の米酢のほか金物・食塩などがあるが、これらの商品を輸送する海運業も盛んであった。なお、当市出身の人物には近世における用水路である長溝を開発した岩政治郎右衛門、近世から近代にかけては、阿月がすりの考案者岩田みつ、宗教家の大愚□
。明教寺超倫。聖光寺円浄。聖光寺行円。野上運海。有知山孝範らがいる。
○[柳井市⑤][柳井俳壇の隆盛]中世以降瀬戸内の商都として栄えた柳井の江戸文化は、そこに住む商人らが営々として築き上げた町人文化でもあった。その代表的なものが俳聖松尾芭蕉の流れを汲む柳井正風美濃の俳諧である。この柳井俳壇は享保年間(1716-36)から1937(昭和21)年まで約200年間続き、その後も発展して今日に至っている。柳井正風美濃派の内、8人は商人である。柳井俳壇は、明治以降曲折を経ながらも、堅実な歩みを続け、句集が盛んに出版された。1929(昭和4)年ゆく春会を主宰していた土井南国城が旧制県立柳井中学校へ着任し、柳井俳壇に新風を吹き込んだ。
○[柳井市⑥][尊攘運動の先駆者]幕末、当市域の柳井津を半円形に囲む形で尊攘思想の拠点が存在した。すなわち、西隣新庄村の岩政信比古とその国学塾、東隣遠崎村(大畠町)妙円寺の僧月性の時習館(清狂草堂)、室津半島南東部阿月の領主浦ゆき負の学館克己堂がそれである。これらの拠点はたがいに関連しながら当地方の尊攘の土壌を培っていったが、その実働的先駆者は、若くして岩政信比古に師事した阿月の秋良敦之助である。彼の提唱によって、1842(天保13)年浦氏邸内に家士の子弟を教育するために学館克己堂が創設され、1872(明治5)年までに31年間存続した。克己堂からは明治維新前後の大業に参加した赤禰武人・白井小助・世良修蔵・芥川義天ら多くの人材を輩出した。
○[柳井市][尊皇運動の先駆者]→幕末、当市域の柳井津を半円形に囲む形で尊皇思想の拠点が存在した。すなわち、西隣新庄村の岩政信比古とその国学塾、東隣遠崎村妙円寺の僧月性の時習館(清狂草堂)、室津半島南東部阿月の領主浦ゆき負の学館克己堂がそれである。これらの拠点はたがいに関連しながら当地方の尊攘の土壌を培っていったが、その実動的先駆者は、若くして岩政信比古に師事した阿月の秋良敦之助である。彼の提唱によって、1842(天保13)年浦氏邸内に家士の子弟を教育するために学館克己堂が創設され、1872(明治5)年まで31年間存続した。克己堂からは明治維新前後の大業に参加した赤禰武人・白井小助・世良修蔵・芥川義天ら多くの人材を輩出した。
○[商都柳井の発展]江戸時代の柳井市は、海運を利用した瀬戸内屈指の商都として発達し、岩国藩の御納戸といわれた。その商圏は岩国領内はもとより、西は大坂、南は九州一円弐までにおよんだ。中心街は柳井津の古市・金屋地域で、今日もなお白壁の美しい街並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。商都柳井が扱った主な産物には、貞末新五郎らの柳井木綿(柳井縞)、小田六左衛門・守田まさ通らの灯油・ろうそく・びんつけ油、高田伝兵衛らの柳井醤油(甘露醤油)、神田幸七の米酢のほか金物・食塩などがあるが、これらの商品を輸送する海運業も盛んであった。こうした商業活動は近代に入っても続けられ、なかにはその蓄積された資力を背景として、明治以降神田友二・神田純一・近藤唯二(ただじ)・高田伝兵衛・神田静治・皿田千蔵ら実業家が現れた。なお、柳井市出身の人物には、近世における用水路でえる長溝を開発した岩政治郎右衛門、近世から近代にかけては、阿月がすりの考案者岩田みつ、宗教家の明教寺超倫・誓光寺円浄、行円らがいる。

◎【琴石山城合戦】琴石は柳井市を代表する山で、この山嶽を戦場として攻防戦が行われた永禄12年(1569)8月に九州の大友氏の兵船がしきりに周防の海岸に侵入した。このとき長府の小方隆忠は守衛のために近海にやってきた。このことに関連したのが琴石山の合戦である。上陸した敵兵は日積の速馬原から攻めてきた。城兵は木々の枝に着物、帯などをかけ白紙をもって旗と見せかけたので敵は多勢とみて退却した。寄手のなかに軍略家がいたとみえて琴石山は高いので水が乏しく兵糧攻めにしたらと評議した。このことを察知して白米を谷々に流して水と見せかけたので智謀に負けて退散したという。そのため言吉山(ことよし)といい、寛文8年(1668)の古地図にもそのように書かれている。のちに琴石と称するようになった。この琴石山城主は高井土佐守彦次郎綱友である。綱友の父高井久明は安芸の熊谷元直の家来であったが主君が永正4年(1507)10月武田氏と戦って戦死した。主を失ったので由宇の正覚寺の縁によって日積にきて代官となった。綱友は父の跡をついで日積に住み毛利元就の家臣となって琴石山の城主に任命された。琴石で合戦があってから後に防府市の椿峠に出陣した。このころ豊後の大友氏に寄食してしていた大内輝弘が上陸して山口に乱入したが敗走、帰国しようとして果たさず防府市において決戦となった。このとき高井綱友は大内軍と戦って永禄12年(1569)10月に壮絶な戦死を遂げた。このことは翌11月8日に毛利輝元、元就が高井氏の主君正覚寺善兵衛に宛てた賞状によって判明する。