高井氏
大帯姫八幡宮の玉垣に高井藤右衛門の銘あり
弘安の役で毛利八ケ国時代に入り、日積の直接の支配は高井氏にかわった。高井は伊予の河野水軍の出で、後に毛利に仕えて、正覚寺守恩の配下であったらしい。
守恩は、毛利五奉行の一人、粟屋元親の弟で、毛利の陣僧でもあった。弘安の役後、日積の杉氏の後地を領し、由宇に住し、玖珂南地方の段銭奉行も務めた。高井氏も日積村の内五拾石を宛行(あてが)われ、水軍の将で、特に新兵器鉄砲の名手として活躍した。大帯姫八幡宮の棟札にも願主として名を連ね、事能要害(琴石)の城番として度々毛利当主より賞詞の書を贈られている(閥閲録)。関ケ原の毛利の敗戦に続く吉川の入国で、守恩や高井は反抗派であったのか、守恩の名は歴史から消え、功労のあった高井小左衛門家のみ、毛利舟手組(水軍)となり、三田尻警固町に移り、維新まで続いた(閥閲録)。高井彦四郎縁友は「永禄12年10月18日(1569)豊後にあった大内輝弘の山口進攻の際、正覚寺守恩に従って、椿峠において合戦に及び戦死した。誠に高名比類ないとの元就・輝元連名の御書がある。
伊予の越智氏流は、久米郡高井に居住したことにより高井を称した。(姓氏家系)。伊予の高井氏は水軍に属し、毛利元就の代より仕え、弘治2年に毛利隆元より高井雅楽允盛任へ玖珂郡日積村(柳井市)の内25石足、通津郷(岩国市)の内4石余を賜っている。盛任の曽孫元致は慶長四年に日積村165石余を持っていたが、関ヶ原の戦後の同六年に大島郡久賀郷(久賀町)に35石余となった。同16年に毛利水軍船手粟屋元時組として86石余、元和四年には100石となったが、寛永20年に三田尻所務代を努めた。就真の子就任は寛文四年に浮米50石となり、元禄15年に三田尻勘場両人役、同8年に上関代官を努め、任長の子任方は享保15年に船手両組証人となった。船手組高井小左衛門任方家である(譜録)。安政2年に船手組高井藤右衛門は65石であった(給禄帳)。
大組高井与右衛門任紀家は、就真の次男任種が御雇から元禄14年毛利吉元に2人扶持切米2石余で召し出され、蔵元近習通となった。任種の子任紀は享保元年に毛利宗広部屋奥御次番役、元文2年に手元横目役として5人扶持切銭250目高43石で大組となった。任紀は寛延3年に奥阿武代官、宝暦2年に小郡代官となっている。(譜録)。天保13年に大組高井藤右衛門は三田尻村(防府市)に在郷している(注進案)。安政2年に大組高井弥四郎は五人扶持銀250目高47石であった(給禄帳)。弥四郎は文久元年に三田尻文武稽古掛になっている。(三田尻宰判本控)
○「山口県史 史料編 中世2」
P169 森政家文書 柳井市
一 毛利元就・同輝元連署書状写(折紙)
今度大内太郎左衛門御(尉カ)方退口之時、御被官高井彦四郎(縁友)於
椿峠乃合戦討死候、誠不乃是非候、無比類存候、委細正覚寺(守恩)・椙
杜善兵衛(元種)尉可申候、恐々謹言、
(永禄12年)11月8日
輝元 判 1569年