聖徳太子

上の写真は叡福寺にある聖徳太子の墓(磯長陵)

叡福寺は推古女帝が聖徳太子の追善のために太子廟のかたわらに建てたのが始まりで、石川寺、御廟寺、または磯長寺などと呼ばれていた。全国の太子信仰の中心になっている寺院である。しかし現在目にする「がらん」は江戸時代になってから再建されたものである。「がらん」の背後の円墳が太子の磯長陵で、上城(うえんじょ)古墳と呼ばれる。直径は54mもあるから、円墳というよりは大きな丘のようである。頂上に供養塔らしきものが立っている。墳丘の裾まわりには結界石(けっかいせき)と称する石垣で囲まれているという。そして墳丘の南側の拝所から横穴式石室が墳丘の奥にのび、三つの棺が安置されている。聖徳太子、母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)、妃の膳部大郎女(かしわでのいらつめ)の棺であるところから三骨一廟とも呼ばれている。
聖徳太子というのは死後にその遺徳をしのんで贈られた称号で、本名は厩戸皇子といった。31代用明天皇の息子で、幼いころから聡明さを謳われた。蘇我・物部氏の仏教伝来をめぐる争いでは、血のつながりのある蘇我氏に味方して物部氏を倒し、仏教興隆に力をつくした。成人してのち、33代推古女帝の皇太子に立てられ、摂政となる。太子の事績としては、内政では「憲法十七条」、「冠位十二階」の制定などがあるが、外交では中国王朝の隋への遣使がある。推古15年(607)に太子は小野妹子を国使として隋に派遣した。そのときの国書に、「日出(いづ)る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつがな)きや」とあったので、隋の「よう帝(だい)」が烈火のごとく怒ったことが「隋書」にしるされている。卑弥呼の時代も、倭の五王の時代も、日本は中国王朝に朝貢する国だった。しかし聖徳太子のときになって、初めて日本は中国と対等の外交関係を結んだのである。しかし、太子はついに皇位につくことなく推古30年(622)に死去した。そして磯長陵に葬られたのである