神代氏
【神代村】大畠町大字神代、由宇町大字神東。玖珂郡の東南端、南側は海を挟んで周防大島(屋代島)。江戸時代を通じて神代村とその西南に続く大畠、遠崎の大畠の瀬戸を挟んで大島に面する三村は大島郡に属した。江戸時代は岩国藩領。この辺りは平安時代末には神代保とよばれる国衙領として現れる。
この神代氏については【萩藩譜録】に、源平合戦の頃、岩国兼秀という者がおり、その子兼高を神代の地に在城させ、神代氏を名乗らせたとある。神代は隣地の大畠とともども瀬戸内交通の要地てもあったらしく、康応元年(1389)足利義満が厳島に詣でた折、随行した今川了俊によって記された【鹿苑院殿厳島詣記】に【周防の国岩国ゆふむろ岡などいふ所々きたにみゆ、(中略)夜舟は心もとなるべしとて、かうしろといふ海上に御とまりなり】(3月11日条)とある。
【郷土史由宇ノート】p245【神代氏】建武中興の後、京都を追われた足利尊氏は西国に逃れて武家を糾合して、東上を図りました。その時、岩国氏の別流で銭壺山麓にあって周辺に勢力をふるっていた。神代彦五郎は大内氏傘下の武将でしたが足利氏に従い湊川にて楠木正成らと戦い手柄を立てました。
◎学中筋の台地上には、かって光明寺があって室町期の大般若経が伝来し、かつその跡には現在も室町期の板碑が建ち、その東方には神代勘解由の屋敷跡がある。更に、台地の奥には、Г城」という地字と城山が位置する。このようにこの台地を中心として神代史の痕跡が分布していることが分かる。この台地は神代の浦を臨む位置にある。これら神代氏関係の遺物・遺跡の配置から見て、字中筋の土地は神代氏の本拠地であったと考えることができる。
◎[あなたの知らない山口県の歴史]
P62 海賊や倭寇などの海上勢力が、戦国期には廻船などを護衛するという名目で警固米(けいごまい)を徴収するようになる。これらの[警固衆]も大内氏の海軍力として組織された。たとえば、大内氏の警固衆で大島郡神代保(玖珂郡)を本拠とする神代氏は、大内氏の遠征の際に出陣を命じられることもに、安芸国(広島県)内の城番や陸上での戦闘にも従軍するなど多彩な活躍を見せている。もっとも、海賊のすべてが大内氏の被官として従属していたわけではない。上関(熊毛郡)には室町時代後半から能島村上氏が進出して砦を構え通行する船舶から関銭(せきせん)を徴収していた。大内氏がこうした海上特権を能島村上氏に認めることで共存共栄が図られたのである。また、陸の大名が既得権益を侵すことがあれば、海賊たちはこれに対抗する独立性ももっていた。戦国時代、大内義隆を計って大内氏の実権を握った陶晴賢は、能島村上氏が厳島で商船から徴収していた警固料を禁じ、大内氏独自の海上関を多く設置して能島村上氏の既得権益を奪った。このことが、厳島の戦いで海賊衆が陶氏から離反した一因になったともいわれている。広大な領地を持たない海賊衆であったが、敵に回すと大名の領国支配を脅かすほど厄介な存在だ⊃たのである。
◎【神代氏】
神代氏は清和源氏にして、源頼義の弟頼清の子仲宗が周防国に配流され、その子兼継が信州より周防国に下向し道前の願主となり、その孫兼綱のとき岩国氏を称した。兼綱の子兼光に三子あり、太郎兼家は周防国日隈城主となり日隈氏を称し、源義経の手に属し檀ノ浦で戦功あり、岩国二郎兼秀、三郎兼末は平家に党し檀ノ浦の役で、土佐国住人夜須七郎行宗に生捕りにされた(吾妻鏡)
兼秀の子太郎兼高は、周防国大嶋郡神代保に居住し始めて神代と号した。兼高六代孫彦五郎兼治は、延元元年(1336)五月、足利尊氏、直義東上するや、大内長弘のさん下に属して直義軍に従い京都に攻め上って、叡山の攻撃に向かい、六月一日よりしばしば官軍と戦った。その後神代氏は大内氏の世臣となり、大内水軍に属した。陶晴賢の厳島渡海には神代氏は宇賀島十郎左衛門、桑原、服部、光井、由井など周防水軍とともに、一千二百余隻の軍船をもって協力した。晴賢滅亡後は毛利氏に仕え萩藩に移ってからは大組にて175石余を給され、他に133石、123石、101石、51石の庶子家があり、その他寺社組、中船頭かどに数家がある。
「その後の神代氏」神代氏は大内義長の滅亡のあと毛利氏に仕えた。天正6年(1578)には、神代源八郎が毛利輝元に神代保内60石の当知行安堵を受けている。(「閥閲録」神代六左衛門)。
大島海賊のうち神代氏は、大内氏や室町幕府の遣明船警護役の中に名前が出る。すなわち室町幕府と大内氏が権利を持っていた勘合貿易で、大内船の警護の侍大将に「神代又太郎」なる人があり、
幕府方の代理の細川船と中国沿岸の寧波で争い、明政府と室町幕府との外交問題に発展した事件(ニンポー事件「文永年間 1500年」)の責任者が神代又太郎とある。
①日積神代往還=日積大原から大里、中山、本谷を経由して神代に沿っている。正式な名称はない。
岩尾の滝=浄土宗光明寺の境内にある。雄滝・雌滝・白糸の滝・住吉の滝の四つの滝を総称して岩尾の滝と呼ぶ。明治後期には、夏期を中心に多くの見物客が訪れていたという。当時は十数棟の宿泊・休憩施設があり、山陽鉄道に臨時停車場として神代駅が設置されるほどであった。
神代の板碑=旧光明寺に立つ自然石。正面中央部に円を描き、その中に弥陀三尊種子を刻む。中世末期のころのものと考えられている。ものもらいができたときに祈ると治るといわれる。
、天文20年(1551)8月27日、陶軍は大内氏の本拠山口の築山館を急襲、義隆は難を避けて長門大津郡仙崎に走り九州での再挙を図ったが、遂に深川の大寧寺で自害した。ここで、隆房は豊後の大友義鑑の二男晴英を迎え義長と改めさせて大内氏を継がしめ、自身も晴賢と改名した。防長二州の豪族の多くは晴賢の武威に屈服し、このときはやく大島海賊衆も陶氏の勢力の一翼となっていた。ただ、多年大内氏の援助をうけた安芸の毛利元就は、四囲の情勢をみてしばらく隠忍自重の後、天文23年5月、晴賢の罪状を鳴らして兵を起した。そして、弘治元年(1555)9月20日、毛利・陶両軍の厳島決戦となったのである。この合戦において、毛利軍では陸戦はともかく、陶軍の大島海賊衆をもってする水軍に対抗するためには水軍をと、大島海賊衆と不仲の三島海賊衆を語らい懐柔し、さらに伊予の海賊衆にもわたりをつけ、ここに伊予・三島海賊衆の連合軍をもっての対決となり10月1日の薄明、厳島の晴賢の本陣の奇襲に成功し、毛利軍は大勝を博した。敗退した陶軍の大島海賊衆は全く壊滅状態となり、わずかに神代氏など毛利に降ったものもあるが、そのほとんど・由井氏も全くあとかた知れず、永年瀬戸内海西部一帯に蟠踞していた大島海賊は滅亡して、伊予・三島の海賊衆と交代し、爾後、大島に入った三島の村上海賊衆は知行地を得て一般武士として、毛利氏の水軍を担当することになったのである。この厳島合戦後、毛利元就は大勝の余力をかってただちに防長の経略を進めていった。
◎【上関の海賊】竃戸関は早くから海上の関として重要視されており、鎌倉期に幕府はここに地頭を置いて海路を掌握しようとした。しかし、地頭も通行船から勝手に通行税を徴収するなどしたため、幕府はたびたび竃戸関の地頭に押妨の停止を命じている。(高野山金剛三昧院文書)。その後、室町期になると竃戸関は上関と呼ばれるようになった。その早い例は文安2年(1445)の【兵庫北関入船納帳】で、上関の商船が周防国の東大寺領の年貢米などをたびたび兵庫北関まで運漕している(東大寺文書)。室町、戦国期は対外貿易の活発化に伴い、海賊たちの活躍も著しくなった。【海東諸国記】によれば、上関には上関太守鎌刈源義就、上関守屋野藤原朝元臣正吉などの海賊がおり、応仁元年(1467)、同2年に朝鮮に使節を派遣している。戌子入明記によれば上関薬師丸500?と見え、大内氏もこのような渡唐船を上関に配置していた。戦国期には宇賀島海賊が上関を領して室津の千葉山に私関を設け、通行船から帆別銭を徴収していた。大内氏が讃岐の細川氏と争った時、村上三島(能島、来島、因島)海賊は大内氏に加勢し、その戦功により上関を得て、私関を設けた。このことから村上海賊と宇賀島海賊との間に激しい対立が生じ、以後、海関銃撃、廻船乗っ取り、上関焼き打ち事件などが繰り返された。天文20年(1551)大内氏は将軍家献上米3000石を廻船30艘に積み、宇賀島海賊がこれに乗り込み、帆別銭を支払わず、そのうえ上関を銃撃して通過した。これに対して村上海賊は安芸国蒲刈の瀬戸で大内側を襲い積荷を略奪した。このため大内氏は村上海賊と縁を絶ち、上関を宇賀島海賊に守らせたが、のち能島の村上海賊が宇賀島海賊を追ってこれに代わった。弘治元年(1555)毛利元就が厳島で陶晴賢を討った際、村上武吉を総帥とする村上三島海賊は毛利氏に加わったが、宇賀島海賊は陶氏に味方して滅びた。
◎【中世】【竃戸関】→矢島(八島)や竃戸は12世紀中葉、賀茂別雷神社??の荘園になっていた。この地域には古くから漁労に長じた海民が居住していたと考えられる。仁平2年(1152)7月、周防国司は庁宣を発し、周防国矢島は伊保庄に属して賀茂社領であるから、所当雑公事を免除するよう在庁官人に命じた。これをうけて同年8月1日、賀茂上社領周防矢島の所当雑公事を免じ、違失なく神役を勤めるよう、在庁官人から住人に命じている(鳥居大路文書)。寿永3年(1184)4月24日、源頼朝は矢島、竃戸関、伊保荘その他において武士の狼藉を停止するよう命じたが、その後も土肥実平や伊保荘の住人大野七郎遠正らの押領が止まなかったので、文治2年(1186)9月5日、頼朝は再下知して遠正らの狼藉を禁止するとともに竃戸関、矢島などの住人に対しても、今後は賀茂神社??の指示に従うように命じている(鳥居大路文書、賀茂別雷社文書)。平安後期の歌人源俊頼の【散木奇歌集】や南北朝期の武将今川了俊の【鹿苑院殿厳島詣記】に【かまど】や【かまどの関】がみえる。