お伊勢参り
江戸時代は参勤交代で主要街道沿いの宿駅の整備が進み、中期以降は多くの庶民が国内を旅するようになった。ただ観光目的は許されず、寺社参詣や湯治が中心だった。人々は寺社参詣などにかこつけ、その途中で名所巡りを楽しんだ。旅に出る場合は身分を証明する【往来切手】が必要だった。旅の移動は徒歩中心のため、数か月にわたる場合も珍しくない。【旅行用心集】(1810年)はそんな旅のガイド本のようなもの。道中の便利グッズとして鏡やろうそく、くしなどを挙げる。旅先で人馬が必要な時は事前に宿へ伝えておくのがベターだったらしい。急病が心配事だったのは現代と同じだ。【賀茂郡吉川村てん送り状切手】(1803年)には、助け合いの様子が記録されている。父親と8歳の娘が吉川村(現東広島市)を出発したが、途中の大田南村(現大田市)で父が病死。取り残された娘を無事帰村させるため、村から村へ娘を送った引き継ぎの記録で、貼り継いだ書状は36枚に及ぶ。こうした記録は、行き倒れに遭った旅人を救助する制度があった証しという。テレビもラジオもない時代に、それぞれの村で共通の認識があったことに驚かされる。
また旅館組合が各地の旅籠(はたご)の情報を掲載した【諸国定宿帳 浪花講】(1863年)鳥瞰図のような絵で名所を案内する【宮嶋、岩国、こんぴら案内絵図】(製作年不詳)なども生まれ、庶民の旅の利便性は高まっていた。
(中国新聞2021.10.19)
【お伊勢参り】
江戸時代【せめて一生一度】と歌われた伊勢参り。多い年には300万人を超える人が詣でたという。伊勢神宮(正式名称は神宮)は天照大御神をまつる内宮と豊受大御神をまつる外宮、別宮など125の総称だ。天照大御神は皇室の祖先神とされる【国の祖神】。別格として尊敬を集め、江戸時代は伊勢参りが庶民の夢だった。弥次さん喜多さんが江戸から伊勢を目指す【東海道中膝栗毛】がブームに。数十年に一度、数百万人が参拝する【おかげ参り】も起きた。
「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さん