鍛治屋原遺跡
鍛冶屋原の地は、元は「市の原」と言った。ここにも、日積南方代官杉氏が居り、市が立っていたからです。
元亀・天正年間(1570年代)に「鍛冶神右衛門」という鍛冶屋がおり、矢を造っていた伝承があります。
八幡宮の棟札にも「鍛冶神右衛門」の名があり、八幡宮の改築にも深く関わり、しかも、大檀那である杉氏との関係が密接であったと考えられます。
杉氏は大内氏の家臣で、日積はその知行所であったようです。
河本・秋森さん宅付近から鉄滓(スラグ)がたくさん出ます。屋号にも、ヤハギ(矢作り)ヤカタ(矢運び)等が現存します。屋号にも、ヤハギ(矢作り)ヤカタ(矢運いし、併せて農具も造ったことでしょう。
《南方代官屋敷跡》
中世、大内氏の日積支配の頃は、南方と北方に代官がいたようで、その屋敷跡の記録が『玖珂郡志』にあります。また、『永田秘録』に、杉重茂日積南方代官職宛行状が残っておりますが、どの系統の杉氏か不明です。
また、代官杉甲斐守屋敷跡が、鍛冶屋原の川角に残り、甲斐守は大内氏に従って、広島、五日市、石道城番として、安芸の武田氏と戦って討ち死にしました。(谷林遺稿集)しかし、甲斐守の実名や系譜は全く不明です。医家、高井家の屋敷跡が残っており、代官屋敷跡ともいわれていますが、別の説もあります。この地の古い地名は「市ノ原」ともいわれ、市場があったとか、大鍛冶屋が居たこと等は、ここの代官との関係も考えられます。