弥生土器

東京の弥生町で発見されたので「弥生土器」と名付けられた。

この土器は、明治初期に東京の文京区向岡弥生町で偶然発見された壺形土器に、後日出土地名を付与して命名されたものである。東京大学の学生であった有坂氏らが表上に埋もれていた土器を発見し、この土器がそれまで知られていた縄文土器や土師器(当時は祝部土器と呼ばれていた)とは全く異質の土器であったために、後日この名称が付与されたのである。焼成法としては、原則的には縄文土器と同じ「酸化炎」焼成によるものだが、根本的に違う点は土器全体に施された「文様」の簡素性にある。弥生土器には縄文が一部付けられている場合もあるが、基本的には沈線で、区画に縄文などではない単純な文様を使っている場合が多い。

○ 水戸藩邸「向岡記」碑
「建立場所は弥生の一等地」
弥生土器が最初に見つかった東大本郷キャンバスの浅野・弥生地区周辺には江戸時代、水戸藩徳川家の中屋敷があった。それを伝える唯一の遺物が、9代藩主・徳川斉昭が1826年に庭園の景観をたたえて建てた「向岡記」碑だ。そこに刻まれた「夜余秘(やよい)」(3月)の文字からついた旧地名「向ケ岡弥生町」が、弥生土器の名の由来になったという歴史的資料でもある。
◎「弥生」のルーツとイメージ。
明治17年(1884年)3月2日、弥生時代研究において記念すべき一つの壷が、東京市本郷区向ケ岡(現在の文京区弥生の東京大学構内)の貝塚から有坂しょう蔵らの手によって発掘された。それは、当時、貝塚土器と呼ばれた縄文土器でもなければ、古墳から出土する祝部土器(現在の須恵器)でもない。その中間の時代と文化を示すものと推定されたこの土器は、当時の東大人類学教室員たちによって、「弥生式土器」と呼ばれるようになった。付近一帯は水戸徳川家の中屋敷があったところで、徳川斉昭(なりあき)の筆になる「向岡記」碑があり、そこに「やよひ」や「春に向かふ岡」という言葉があった。「弥生」の名はおそらくそこからとられたのだろう。
[弥生時代]
紀元前4世紀ごろ、大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々によって、稲作が九州北部に伝えられ、急速に東日本にまで広まりました。人々は、水田の近くにむらをつくって住み、たて穴住居の近くには、収穫した稲の穂をたくわえるための高床の倉庫もつくられました。稲作とともに、青銅器や鉄器などの金属器も伝わりました。もとは武器として使われていた銅剣や銅矛も、銅鏡や銅鐸と同じように、おもに祭りのための宝物として用いられました。鉄器は、武器として用いられたほか、木製の農具や舟などをつくる工具として、大きな役割を果たしました。稲作や金属器が伝わったころ、弥生土器という新しい上質の土器もつくられるようになりました。そこで、このころの文化を弥生文化、この時代を弥生時代とよんでいます。