涙松の碑
◎「涙松の碑」→萩城下から橋本橋を渡って山口へ通じる旧街道にある。この道は大屋から千法師付近で左へ折れ曲がるので、城下の町並が見えるのもここが最後で、涙ながらに木の間がくれに別れを惜しむのあまり、この街道並木をいつからか「涙松」と呼ぶようになったという。安政6年(1859)5月25日、萩城下をあとに江戸へ檻送される吉田松陰が、この涙松のあたりで駕籠をとめさせ、「かえらじと思ひ定めし旅なれば、ひとしをぬるる涙松かな」と詠んで一躍有名になり、いまは涙松の碑が立っている。涙松から鹿背坂までの道のそばに石地蔵が立っているのは、大屋刑場の跡で、宝暦9年(1759)に藩医栗山孝庵が、刑死した女因の遺体をここで解剖したのが、れが国最初の女体解剖といわれている。