柳井水道
「柳井水道」
柳井市の古開作・新庄・余田を経て、熊毛郡の田布施町・平生町に通ずる低地をいう。北側に大平山(314m)、石城山(350.1m)ほかの連山があり、南は熊毛半島に属する赤子山(230.6m)が東西に横たわる。中世まで満潮時には水道は海水をたたえ熊毛半島は離島となった。水道地帯は青灰色砂泥層で、かって生息した貝類の化石が出土する。地名として熊毛郡田布施町に大波野、砂田、柳井市域に浜・海田などがある。
新庄字安行の廃寺長福寺の大般若経写経の至徳三年(1386年)の奥書で、願主真光禅尼が「楊江人」と号しており、これによって新庄が楊井の河口であったと推測される。応永6年(1399年)の「余田保狐鹿山来暦」に「床机を持って四方の風景を見に山高して海近し谷深め水遠し沖には海水清々として出入の船にぎにぎし」とある。石城山に鎮座する石城神社の「式内石城神社縁起」には「文明の頃は柳井より海引続き余田波野八幡の寄唐戸の迫門細干浜より蛭子浦長谷わたりまで海なり」とあり、これらによって旧水道の様子をうかがうことができる。
水道が閉塞(へいそく)したのは寛文四年(1664年)柳井古開作150町歩の干拓によるもので、その後陸地化が進んだ。
柳井天神春まつり
まれにみる好天に恵まれた四月二0日、柳井天満宮を中心に華やかな時代絵巻の再現「柳井天神春まつり」が行われた。この天神祭に栄えある大行司の大役を務めさせていただいた。大変光栄であり、思い出すにつれ感激を新たにしているところである。金棒、先箱、毛槍を先頭に小行司、大行司と続く総勢二00名の「大名行列」。柳井天満宮を出発し、三00mにわたる行列が金棒のリズムに合わせて市内を練り歩いた。特に今回初めて取り入れられた柳井川沿いの直線コースの行列は壮観であった。最後尾の馬上から見るはるかかなたの本橋路上で、拍子木の音に合わせ高く投げ上げられた毛槍が春の日差しに舞った。江戸時代にタイムスリップした瞬間である。柳井川の右手には琴石山。その麓の茶臼山古墳を望みながらしばし柳井市の古に思いをはせた。
柳井はかって柳井津といわれていたように、海に面した商業のまち、町人の町であった。今も白壁の町並みが残り、町人文化をかい間見ることのできる所である。江戸時代には、岩国領主吉川氏の「御納戸」といわれ、城下の岩国と商都柳井津に町制がしかれた。このような歴史をたどりながら、私は三時間余り馬上の菅原道真であった。
熊毛(室津)半島
熊毛半島は、周防灘と安芸灘そして伊予灘の交海地域に突出しており、東アジアの交流史のなかで、古代より畿内と九州を結ぶ瀬戸内航路の要衝であった。
日本の歴史を振り返ってみると、かって東日本と西日本の人・モノ・情報などが交わる近江地方にエネルギーが集中したことがあった。その結果、織田信長の天下統一への動きや琵琶湖の海運を利用して財をなした近江商人の出現を見、大きく歴史が動いたのである。熊毛半島も近江地方と同じように、古代から周辺地域との海上交流によるエネルギーが集中した地域であったと考えられる。
二00五年、上関町長島にある田ノ浦遺跡の発掘調査が行われた。遺跡は、背後に険しい急斜面、前面には海が広がった場所に立地している。発掘の結果、今から約五000年前の縄文時代中期から江戸時代にかけて人々が生活した痕跡が見られ、土器をはじめ多量の遺物が出土した。この遺物の中でも縄文時代後期から晩期と推定されるサヌカイト製板状素材の出土が注目されるところである。
また、半島西岸の岩田遺跡では、大分県姫島産黒曜石の原石が発見されている。興味はつきない。そこで、次回は熊毛半島を経由して九州や四国に通じる古代からの航路について考えてみたい。
平郡島沖の海流
昭和五三年の春、私は柳井の沖に浮かぶ平郡島に中学校教師として赴任した。平郡の名の由来については、いろいろな説がある。平郡東では、源義経に滅ぼされた木曾義仲の子「平群(へぐり)丸」が逃れて来て、住みついたことから付けられたと言われている。しかし、この平郡島は海の要所であり、それ以前から名付けられていたのではないかと、私は思っている。大化の改新(六四五年)の頃、蘇我氏らとともに大和国平群郷に平群氏がいた。平群氏は大和王権の国政をあずかる豪族で、平郡島も支配していたという。ここから、平郡という名でよばれるようになったのではないかと思うのである。
平郡島には次のような興味深い逸話が残っている。現在宮島に祭られている神が、平郡島を安住の地にしたいと考え、島の周囲を測らせた。周りはおよそ二八キロ(七里)。思ったより少し狭かったので「ここは、いやいや」と宮島に渡られたというのである。これが平郡島にある「いや」(五十谷)の地名のおこりだと伝わる。「五十谷」は絶景の地で、夏はキャンプ地として、近くの磯は魚釣場として知られている。この五十谷の沖では、死体が網にひっかかることもあるそうだ。大分県国東半島にある「長崎鼻」の絶壁から身投げをした人がここに流れ着くのだという。このことからも、国東半島沖から平郡島へ向かって大きく潮が流れ込んでていることが分かるのである。
古代周防灘航路
周防灘の海流について思いを巡らせていた時、村上磐太郎氏が著した「周防灘圏の上代交通路と邪馬台国」という書物に出合った。村上氏によると、古代から次の三航路が頻繁に使用されていたという。
「祝島姫島線」=この路線は都に通じる最古の航路である。遣新羅・隋・唐使船等の航路もこの路であったことが 『日本書紀』や 『万葉集』 等の文面から伺われる。都から下るに、一番広くかつ難所の灘である。祝島の名は出漕の時、神を斎い祭るため付いたという。
「佐波津姫島線」=豊予海峡を北進する上げ潮は、姫島をかすめて真直ぐに周防の佐波津につき当たる。下げ潮になるとその路を南下する。従ってこの路は佐波津から姫島まで、上下する潮を何の抵抗もなく利用出来る。九州への渡航路としては一番容易かつ安全な路であったであろう。
「豊前国沿岸線」=国東半島に辿りついた下りの船が、外海へ出るには、豊前国の東海岸を、宇佐や豊国の港々に停泊しながら北上し、下関海峡から出る。外海から瀬戸内海に入る船はその逆のコースをとる。この航路は、潮流はやや速度は緩いが、豊予海峡の潮の上下を利用したものである。古代人の自然の力を利用する叡智に驚かされるのである。
柳井津商人
柳井津と呼ばれた地域は、江戸初期には柳井川と姫田川に挟まれていた。この地域の支配者は、岩国政庁から派遣された代官役兼務の柳井津奉行と、その下に一年交代を原則として常駐した手子役二名であった。代官所は、江戸時代初期には新庄村に置かれていたというが、承応三年(一六五四)に柳井津古市へ移転し、次いで姫田川東岸の姫田の地へ移されたという。これは柳井津の重要性を考えての移転であった。さかのぼること中世にも柳井津は、瀬戸内海の要港を担っていた。一四六七年には、応仁の乱で京都へ送兵の軍港として、一五00年には将軍職を追われた足利義稙が立ち寄るほどの繁栄ぶりであった。 慶長六年(一六0一)、吉川広家は、岩国の地を新城下と定め、家中諸士の屋敷割を行い、錦見に町屋を建設した。柳井市史によると、この新しい町の一つに「柳井町」があり、柳井津商人であった白銀屋宗円、久保屋与左、油屋又右らを移したとある。さらに、玖珂郡志によると、広家は、当時の柳井津の有力商人を「くぼくぼたおかだかめおかあさのうみさかたあきもとしらがねのつじ」と狂歌に詠んだそうだ。このように柳井津商人の経済力は高く評価されていたのである。
伊予国「道後温泉」
伊予は、瀬戸内海の芸予諸島の先にある。国生み神話に「伊予国の愛比売(えひめ)」と記されるように女神の国である。古代からの瀬戸内海航路の発達にともない、道後温泉は都人の保養地となった。「伊予風土記」によると、天皇家はこの瀬戸内の癒しの湯に五回訪れたという。一回目は景行天皇と大后の八坂入姫命、二回目は仲哀天皇と神功皇后、三回目は聖徳太子、四回目は舒明天皇と皇極天皇、五回目は斉明天皇と天智天皇と天武天皇である。斉明・天智・天武天皇の訪れは、白村江(はくそんこう)の戦いに備えて、本陣を九州に移す途中の滞在であった。このときに、額田王の有名な歌が詠まれる。
「熟田津に舟乗りせむと月待てば 潮もかないぬ いざ漕ぎ出でな」(万葉集巻・十八) 日本書紀には軍団が熟田津に着いたのは一月一四日で、道後温泉に行宮も設けられたと書いてある。月夜をたよりに、これから周防灘の大海原に船出するのはあまりにも危険であるため、この歌は実際の場面を詠んだのではなく、兵士を鼓舞するための歌であったという説もある。いずれにしてもこの航路があったことは事実であり、潮の流れにより、次は九州の国東半島周辺に上陸したのであろう。そこには宇佐八幡宮がある。私の生涯の研究テーマ地である。
宇佐八幡宮
もの心ついた頃から、大工の棟梁の父との初詣は宇佐八幡宮と決まっていた。宇佐八幡宮は生涯にわたっての研究テーマとなったのは、このことがきっかけであったように思う。八幡さまの総本宮としての宇佐八幡宮が鎮座する宇佐地方はロマンにあふれている。おだやかな山の連なり、海原、一面の田んぼ。宇佐は天台密教の寺が集中する国東半島の付け根にあり、これまで大陸文化につながる数多くの出土品が発掘されている。また正倉院に残る「大宝戸籍」には、秦氏など豊前の渡来系の姓が記されている。宇佐平野は現在も穀倉地帯で知られ、古代から海上交通の要衝でもあった。宇佐八幡宮には、第一殿に八幡大神( 応神天皇) 第二殿に比売大神、第三殿に神功皇后( 応神天皇の母) が祀られている。八幡神は中世以降、武士たちの守護神として崇拝された。その信仰の基となっていたのは、第三殿に祀られている神功皇后の新羅出兵の伝説である。西方の名も知れぬ神であった八幡神は、大仏建立を契機に突如入京し、仏と神々をつなぐ新しい国家神となった。その後も、道教事件、空海・最澄の新仏教、承平・天慶の乱の平定、摂関政治の確立と、その時代、時代の政治や宗教政策に深く関与し変身をとげてきたのである。
周防灘古墳文化圏
三世紀の終わり頃、近畿地方に突如として前方後円墳とよばれる古墳が出現した。魏志倭人伝で邪馬台国の女王「卑弥呼」がいたとされる頃である。前方後円墳の名称は、江戸時代の国学者蒲生君平(がもうくんぺい)が定義したことに由来している。
倭王権が、近畿地方から瀬戸内海の潮流に乗り九州地方を支配下においたことは、前方後円墳の築造によって想像できる。熊毛半島の基部には全長約八○mの柳井茶臼山古墳(四世紀末~五世紀初頭)。半島西部には、全長一二○mの山口県最大の白鳥古墳(五世紀)がある。周防灘西部には全長一二○mで九州最大の石塚山古墳(五世紀前半)。宇佐地方には九州最古で全長五七・五mの赤塚古墳(三世紀末)があり、周防灘を取りまく古墳文化圏が形成されていった。卑弥呼の時代から日本列島は首長たちの連合体であった。古代の日本は文明の辺境地でありながら、中国の皇帝陵に迫る異常に大きな古墳がつくられている。なぜか。鉄素材の入手にある。鉄の入手は地域の王が行った。その結果、地方王権は強大になり各地に巨大な古墳が出現したのであろう。宇佐地方は連合倭王権の九州制圧前線基地であり、宇佐八幡宮はやがて隼人征討に神威を示すことになるのである。
海流と文化伝来
日本の歴史を振り返ってみると、外来の最新文化が大流行した時期が何度もあった。仏教と共に伝わった飛鳥文化、空海が持ち込んだ密教文化、禅僧が広めた東山文化、南蛮文化、さらに明治文明開化の西洋文化もそれに当たる。五世紀末の大和王権の頃、秦氏・東漢氏など有力な集団が朝鮮半島から渡ってきた。彼らの中には、対馬海流にのってはるか福井県の若狭湾一帯にたどり着いた者もいた。そのことは、敦賀市にある気比(けひ)神社に渡来人の伝説・伝承が色濃く残っていることから窺われる。「日本書紀」垂仁天皇条にしるされた加羅(任那)の王子ツヌガアラシトの説話によると、彼の額に角が生えていたので角鹿(つぬが)(現在の敦賀)と呼ぶようになったという。また、アメノヒボコの伝承も残る。アメノヒボコは、渡来伝承上の重要人物で、新羅王子の子と伝えられる。製鉄の技術集団とされているアメノヒボコの系譜の最後に意外にもオキナガタラシヒメ(神功皇后)の名が見える。渡来系豪族息長(おきなが)氏は琵琶湖東岸を治めていたという。どうも近江地方には古代から大きなエネルギーが蓄積されてきたようである。いつか気比神社を訪れ伝説の中に身を置いてみたいと願いつつ私の拙稿を閉じる。