遣新羅使と大伴旅人



△「郷土史紀行60」
p58「遣新羅使と大伴旅人」①「君が行く海辺の宿に霧立たば/吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ」天平8年(736)、遣新羅使として朝鮮半島に向けて旅立つ夫に妻が贈った短歌で、「万葉集」巻15に収録されている相聞歌(人を恋うる歌)。
②「沖つ風いたく吹きせば我妹子が/嘆きの霧に飽(あ)かましものを」風早の浦(広島県安芸津町)に停泊した際、妻から贈られた歌を受けて詠んだもので、他国への長旅をする夫と、その身を案ずる妻の心情が、いたいほど伝わってくる。
「万葉集」は、飛鳥時代のじょ明天皇(在位629-641)から奈良時代中期の大伴家持(おおとものやかもち)(759)まで、約130年間に詠まれた長歌・短歌など、合わせて4千500首の相聞歌・晩歌・雑歌(ぞうか)を収録した日本最古の歌集。詠み人は天皇から名もない庶民まで多岐にわたり、階級に関わりなく「万(よろず)の言の葉を集めた」という意味から「万葉集」とされるとともに、「万代・万世まで伝えたい歌」との思いを、書名に託したとも考えられている。その中には中国や朝鮮、あるいは太宰府へと政府の使者や公人として、海路および陸路を行き来した古代旅人の歌も多数収められている。
726年、太宰の帥(そち)「太宰府の長官」として赴任した大伴旅人78首、736年に派遣された最後の遣新羅使の145首など、瀬戸内海を舞台にした数々の旅情歌が、1300年という長い年月にわたって、人々に感動を与え続けている。古代の瀬戸内海航路は、陸地沿いのいわゆる「地乗り」で、摂津の難波津(大坂)を出帆し、播磨の明石浦(明石)あるいは室津(兵庫県御津町)ー備中多麻浦(玉島か)あるいは備前牛窓(岡山県邑久郡)ー備後神(こう)島「福山か」あるいは鞆の浦ー安芸長井浦(三原)ー風早浦(安芸津)ー女猫(めねこ)の瀬戸(呉市川尻と上蒲刈島の間)ー長門浦(倉橋島)ー周防の麻里(まりふ)浦「岩国」ー周防大島の大畠瀬戸ー上関と祝島の間の海峡ー熊毛浦(熊毛郡)までの各港に、「風待ち・潮待ち」などで停泊しながら、豊前分間(わくま)浦(大分県中津)ー関門海峡ー太宰府まで、日々順調な航海で約30日であった。朝鮮半島の釜山へは、さらに対馬海峡の荒波を越えなければならなかった。太宰府に赴任する大伴旅人や遣新羅使の一行は、船から眺める景色に旅愁、望郷、妻恋の心をつのらせ、それを短歌・長歌に詠んで長旅の慰めとした。③「ともし火の明石大門(おほと)に入らむ日や/漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」これは、「万葉集」第一の歌人で地方官□だった柿本人麻呂の歌で、地方に単身赴任のために難波京を出発して明石海峡にさしかかったときに、家族を思って詠んだものだろう。それから後、明石大門を新羅に向かって航行した使者たちも、同じ思いだったに違いない。④「武庫の浦の入江の州鳥(すどり)羽ぐくもる/君を離れて恋に死ぬべし」夫が都を離れてまだ幾日もたたないが、いつ帰って来るかもしれない長旅を思うとき、生きて再び帰ってくれるかどうか、不安で胸が張り裂けそうになる。
⑤「朝開き漕ぎ出てくれば武庫の浦の/潮干の潟に鶴が声すも」
⑥「吾妹子(わがもこ)が形見に見むを印南都麻/白波高み外にかも見む」明石の浦を過ぎて船は一路西へ。姫路沖、播磨灘の島々が見えてくる。あれは「家島」だと聞いて都の我家を思い出してしまった。妻は元気でいるだろうか。⑦「家島は名にこそありけれ海原を/吾が恋ひ来つる妹もあらなくに」相生の沖合いを過ぎ、船はいよいよ播磨の国最西の湊室津に入る。室津は、川尻(尼崎)・大輪田(兵庫)・魚住(明石)・韓(的形)とともに「摂津五泊」と呼ばれた潮待ち・風待ちの良港であった。
室津の沖に「唐荷島(からにじま)という島がある。聖武天皇(724~749)に宮廷歌人として仕えた山部赤人が、唐荷島のそばを通過するときに詠んだ反歌は、「唐」を「辛」に置き換えて、家を遠く離れている辛い気持ちを詠んだもの。
⑧「玉藻刈る辛荷の島に島廻(しまみ)する/鵜にしもあれや家思はざらむ」江戸時代「室津千軒花の町」と謳われるほど栄えた港町室津には、海駅(江戸時代)の本陣や脇本陣、廻船問屋など豪商の建造物が軒を並べ、往時を偲ばせている。そんな町並みの突端、播磨灘を望む丘に建つ賀茂神社境内から真っ青な海原に浮かぶ唐荷島がよく見える。
⑨「牛窓の浪の潮騒(しおざい)島響(しまとよ)み/寄さえし君に逢はずかもあらむ」室津のつぎの停泊地は備前牛窓。オリーブ園から眺める「唐琴(からこと)の瀬戸」は、日本のエーゲ海といわれるほど穏やかで風光明媚。だが、いつも波静かな牛窓の海も、ひとたび東風(こち)が吹けば島がどよめくばかりの波が立ち、干満時の唐琴の瀬戸は、船を寄せつけないほどの急流となる。
⑩「ぬば玉の夜は明けぬらし多麻の浦に/求食(あさり)する鶴(たず)鳴き渡るなり
⑪「多麻の浦の沖つ白珠(しらたま)拾へれど/またぞ置きつる見る人を無み」家を出て何日目の朝だろうか。今朝は鶴が餌を求めて鳴き渡っているから、きっと船出にはもってこいの日和だろう。多麻の浦に停泊している間に、妻に見せようと思って真珠を拾ったけれど、妻がそばにいないので捨ててしまった。さあ、つぎの寄港地神島(かんのしま)を目指して出発だ。ところで、多麻の浦とは現在のどこに当たるのだろうか。玉野市、倉敷市玉島があり特定されていない。次の神島(かむしま)も笠岡か福山か、意見の分かれるところである。
⑫「月(つく)読みの光を清み神島(かむしま)の/磯みの浦ゆ船出すわれは」1960年代の発掘調査によって、奈良時代から平安時代にかけての鏡や金銅製金具、三彩の容器などが出土した笠岡市沖合の大飛島が、万葉歌人が詠んだ神島の可能性が高いとされている。
⑬「磯の上に立てるむろの木ねもころに/何か深めて思い始(そ)めけむ」
⑭「吾妹子(わがもこ)が見し鞆の浦の室の木は/常世にあれど見し人そなき」
⑮「離磯(はなれそ)に立てるむろの木うたがたも/久しき時を過ぎにけるかも」
鞆の浦の「むろの木」を詠んだ歌は、太宰の帥(そち)の任を終えて都に帰る船中における大伴旅人の亡妻晩歌(吾妹子が・・)、およびそれ以前に鞆沖を航行した船人の歌(磯の上に立てる・・)、そして遣新羅使の歌(離磯に立てる・・)の3首。「万葉集」にはさらに3首収められており、沖から見える「むろの木」が瀬戸内海を行き来する船人の目印だったことが窺える。
⑯[青丹(あおに)よし奈良の都に行く人もがも/草枕旅行く船の泊(とまり)告げむに]
⑰[帰るさに妹(いも)に見せむにわたつみの/沖つ白玉拾(ひり)ひて行かな]難波を発って幾日過ぎただろう。妻はどうしてい るだろうか。せめて私が元気で旅していることを伝えたい。瀬戸内海の船旅もやっと半分、まだ先は長い。次の停泊地は[風早の浦]と聞く。
[風よ早く吹いてくれ。強い風に乗って順調に航海をつづけ、無事任務を終えて愛する妻や子のもとに早く帰りたい]、そんな願いを叶てくれそうな名前の港だ。
⑱[わが故に妹嘆くらし風早の/浦の沖辺に霧たなびけり]穏やかな曲線を描く海岸線。どこまでも穏やかな三津湾に臨む風早の里は、船人たちの郷愁を呼び起こす。風早の浦を出発した船は、川尻(呉市)の海岸線を眺めながら、蒲刈大橋が架かる女猫(めねこ)の瀬戸を進み、その日の夕方長門の浦に入港した。
⑲[石走(いわばし)る滝もとどろに鳴く蝉の/声をし聞けば都し思ほゆ]港に近い森で蝉がしきりに鳴いている。都で聞いた蝉の声と少しも変わらない。
⑳[恋繁(こひしげみ)慰めかねて日暮(ひぐらし)の/鳴く島陰に庵(いほり)するかも]
21[我が命を長門の島の小松原/幾代を経てか神(かむ)さびわたる]
22[磯の間ゆ激(たぎ)つ山河絶えずあらば/またもあひ見む秋かたまけて]
23[山の端(は)に月かたぶけば漁(いさり)する/海女(あま)の燈火(いさりび)沖になづさふ]長門の浦は、古来長門島と呼ばれた倉橋島の中央に位置する桂浜で、白砂青松(はくしゃせいしょう)の景勝地。奈良時代には内海交通の要衝として栄え、遣新羅使船が停泊した際、使者が多くの歌を詠んでいる。そのうち[万葉集]に収録された8首の歌碑が、桂浜にたてられている。また、この地は推古天皇の600年頃から造船が盛んになり、遣唐使船などが建造された。平成元年、全長25mの遣唐使船が復元され、[造船歴史館]展示。その他、江戸時代に建築された日本最古の和船ドック跡(元文・寛保期=1736から1743年)、中世の多賀谷氏勘請(かんじょう)の桂浜神社本殿(国重文)など、多くの史跡がある。
24[月読みの光を清み夕凪に/水手(かこ)の声呼び浦廻(うらみ)漕ぐかも]
長門の浦からは船は広島湾には寄らず、周防国麻里布の浦をめざす。
当時、厳島神社は地方の一小社にすぎず、わざわざ寄る船もなかった。が、平安時代に平清盛が厳島を信仰し、音戸瀬戸を開削してからは、広島湾を横切って厳島に寄り、麻里布の浦に向かう船もみられるようになった。
25[妹が家道(いえぢ)近くありせば見れど飽かぬ/麻里布の浦を見せましものを]錦帯橋、岩国城、吉香公園そして城下の町並みを今に伝える美しい町。江戸時代の歴史は息づいていても、古代麻里布の浦はその姿をとどめていない。遣新羅使の船は、麻里布の浦を眺めながら潮が渦巻く大畠瀬戸へと向かう。きつい潮の流れで海藻を採っている海女の姿に船人は感動の思いを隠せない。
26[これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に/玉藻刈るとふ海人娘子ども]大畠と周防大島を大畠大橋によってまたぐ幅およそ2kmの海峡では、小さな釣り舟が錨をおろし、急な流れに懸命に耐えている。今でも潮の速いこの瀬戸は、古代瀬戸内海航路の難所のひとつだったにちがいない。海峡を無事乗り切った船は、室津半島に沿って南下、熊毛の浦に着く。熊毛の浦は室津・上関、平生町尾国、さらに光市室積の説がある。いずれにしろこの一帯の海辺に違いなく、船は室津と祝島の間を航行した。
27[家人は帰り早来(はやこ)といはい島/斎(いわ)ひ待つらむ旅行くわれを]
28「都辺に行かむ船もが刈菰の 乱れて思ふ言告げやらむ」
29「沖辺より潮満ち来らし可良(から)の浦に/求食する鶴鳴きて騒ぎぬ」可良の浦は平生町と上関の境に位置する尾国湾で、室津半島西側の波静かな入江。上関シーサイドホテル近くの道路沿いに「万葉の碑」がたつ。この後、遣新羅使の一行は佐婆沖(防府)で台風に遭遇して一晩漂流。命からがら分間(わくま)の浦(大分県中津)に着船している。
30「浦廻(うらみ)より漕ぎ来し船を風早み/沖つみ浦に宿りするかも」風で壊れた船の修理に10日余りを分間の浦で過ごした一行は、その後再び玄海灘で遭難するなど、散々な旅のはて新羅にたどり着く。だが、入国を拒まれ目的を果たせず、おまけに失意の帰路において大使阿部継麻呂らが帰らぬ人になるなど、思いもよらない結果であった。しかし、旅路において詠みつづけた歌が、当時の瀬戸内海航路の様子を今に伝えた功績を思えば、彼らの苦労は決して無駄ではなかったのである。
◎「周防灘圏の上代交通路と邪馬台国」村上磐太郎 著
p9「景行紀」 周芳の娑磨(佐波津)から国東半島へ  当時九州に渡るには、佐波津から豊予海峡に向かって流れ下る引き潮に乗って国東半島に渡り、更に行橋まで行くには、上げ潮に乗って豊前国の海岸を北上する道をとっていたようである。
P12「祝島姫島線」
この路線は都に上るに最も古くから通られている航路。遣隋使船の航路もこの路を通ったことが文面に伺われる。都から下るに一番広くかつ難所の灘なので、途中の安全を祈って祝島出漕の時は神を斎い祭る故にその島名が起り、灘も伊波比洋の名があると言う(摂津風土記、女島考)。「万葉集」15巻の遣新羅使が熊毛浦で歌った。
草枕旅行く人を祝い島幾代ふるまで祝い来にけむ
の歌は、古き時代のこの航路を回想して歌われたものである。
「佐波津姫島線」
豊予海峡を北進する上げ潮は、姫島をかすめて真直ぐに周防の佐波津につき当る。下げ潮になるとその道を南下する訳である。従ってこの道は佐波津から姫島ー国東まで、何の抵抗もなくフルに上下する潮を利用出来る。しかも佐波津の沖の向島を離れると、泊地として野鳥なども時化時の避難地たり得るので、九州への渡航路としては一番容易かつ安全な道であったであろう。
「豊前国沿岸線」
国東半島に辿りついた下りの船が、外海へ出るには、豊前国の東海岸を、宇佐や豊国の港々に泊りを次いで北上し、下関海峡から西海へ出る。外海から瀬戸内海に入る船はその逆のコースをとる。この航路の潮流はやや速度は緩いけれども、豊予海峡を上下する潮のままに動いているので率直に利用できる。
◎【統一新羅と日本】668年、高句麗が唐によって滅ぼされた。【秋7月に、高麗(こま)、越(こし)の路(みち)より使(つかい)を遣(まだ)して、調進(みつぎたてまつ)る。風浪(かぜなみ)高し。故(かれ)、帰ること得ず】(【日本書紀】天智7年条)は、高句麗が唐の激しい攻撃を受けるなかで、即位直後の天智天皇に使節を送ってきたことを示す。同年9月に新羅が【金東厳(こんとうごん)】を派遣して来、11月には帰還する東厳に託して新羅王に絹、綿ほかを贈るとともに、道守臣麻呂(ちもりのおみまろ)、吉士小鮪(きしのおび)を新羅へ派遣する。遣新羅使である。複雑な緊張関係にあった朝鮮半島内は、660年の百済滅亡に続く高句麗の終焉により新羅に統一されることとなった。天智朝以来8世紀後半までに新羅からの使者は頻繁に来日し、遣新羅使もほぼ定期的に送り出されている。遣唐使派遣が天智8年(669)以後大宝2年(702)まで約30年間空白になることを思えば、この時期の日本の外交政策は統一新羅を軸として展開されていたことを知る。大陸渡来の先進的学芸や文物は、専ら新羅経由でもたらされた。【万葉集】巻15の前半の遣新羅使人歌群は天平8年(736)の遣使に相当、大使阿部継麻呂が対馬で死去し、副使大伴三中も発熱して入京できないなど悲惨な航海だった。帰京後天平9年2月の報告によれば、このたびの使節は新羅王に門前払いの扱いを受けたという。それは天平8年遣使だけの不調和ではなくて、神亀末年から天平勝宝年間における日本と新羅の外交は一触即発の状態に陥り、天平宝字3年(759)に至ると恵美押勝(えみのおしかつ)政権下に新羅征伐計画が具体化。その計画は実行されることなく終わったものの、両国の緊張関係は緩和されることなく継続し、宝亀10年(779)をもって新羅との公的な外交は途絶する次第となった。

○「田布施町史」
p142「熊毛浦」
「万葉集」に、天平8年(736)に新羅に派遣され、翌年帰朝した使節の一行が往復途上の各地で詠んだ歌145首が収採されている。彼らは難波(大阪市)を出発して山陽道沿いに瀬戸内海を西航し、安芸国長門島(広島県倉橋島)から周防国玖珂郡麻里布浦、大島鳴門を経て、熊毛浦でも一泊した。その後、佐波郡付近から豊前(大分県中津市付近)方面に流されたが、現福岡市に所在した「鴻臚館(こうろかん)」の前身である筑紫館に入り、肥前国松浦郡(佐賀県松浦市付近)から壱岐・対馬両島を経て、新羅へ向かった。熊毛浦で作られた歌は四首が収められているが、いずれも海辺の情景を詠み、そして一連の歌に共通する傾向である望郷の念がうかがわれる。これらの地名の比定については古くから議論され、なかにはこれに基づいて新たに命名された地名も見られる。当時別府・馬島地区もかっては麻里府浦と称され、文字こそ異なるが、防府市三田尻の鞠生も「まりふ」と呼ばれる。しかし、この麻里布浦は玖珂郡に属することが明記されているし、倉橋島と大畠瀬戸と考えられる大畠鳴門の中間に位置していることから見て、現岩国市の錦川河口付近とする通説に従うべきであろう。
これに対して熊毛浦は必ずしも明確でない。その名からして熊毛郡の海辺であることはいうまでもないが、平生湾付近とも、光市の室積湾ともいわれている。
麻里布浦から潮流が早く、航海の難所でもある大島鳴門を経て熊毛半島を迂回し、上関海峡を通過してここに至るとすれば、海岸沿いに走る当時の航海方法からしても、室積湾まで進んだとするより、平生湾ないし長島・佐合島・馬島などに囲まれた熊毛半島西岸の海とみなした方が自然であろう。特に、平生町大野から佐賀にかけての地区が熊毛郡の故地に比定されていることも参考になるだろう。