柳井市
柳井市
山口県の南東部、瀬戸内海に面する。熊毛半島の東半分を市域とし、南東海上に屋代島(周防大島)を望む。南海上には市域である平郡島がある。市域の大部分は山地で、東部の琴石山、北部の氷室岳などの山々は伊陸・日積の盆地をつくり、また、由宇川・柳井川の最上流となる。柳井川は琴石山北側を西に流れ、中馬皿から南流し瀬戸内海に注ぐ。この柳井川河口から西の部分は柳井水道と称する沖積平野の低地帯で柳井市の中心市街地を形成する。 柳井の初見は、貞永元年(1232)の周防国司庁宣案(東大寺文書)に「右、被保司代僧幸円去月廿七日解状□、件名田者、当保与柳井庄堺相論之時、在庁官人併守護所使共致沙汰、任古堺令糾付国領畢」とある楊井庄で、三浦家文書の正平15年(1360)の目録などに蓮華王院(現京都市東山区)灯油料としての「楊井庄」などがみえる。」
◎【原始、古代】縄文時代の遺跡は伊保庄の宮田黒島浜、阿月の与浦など熊毛半島の東岸に分布する。弥生時代の遺跡は伊保庄、余田をはじめ市内各地に分布し、集落が形成されていたことがわかる。古墳時代のものとして茶臼山古墳、上八(こうじょう)古墳、赤子山の北麓梶ケ森古墳などがある。なかでも茶臼山古墳は竪穴式石室をもつ前方後円墳で土着豪族の存在が推定される。養老5年(721)熊毛郡を割いて玖珂郡を置いたが(続日本紀)、柳井は伊保庄を除いて玖珂郡に属した。【和名抄】では、柳井市域の中央は郷名を欠いている。日積、伊陸は由宇郷に属していたと推定される。新庄には奈良朝に建立された濡田廃寺跡があって古瓦が出土する。平安末期、熊毛半島の南端池の浦では源平合戦が行われたという。楊井庄は蓮華王院領であり、また伊保庄は寛治7年(1093)の宮中武徳殿の行事が賀茂社(現京都市)に移された時、その馬料として賀茂社に寄進されている。
「中世」
柳井は周防における交通の要地であった。寛正5年(1464)11月、足利義政は承勲を山口に派遣、これに管領細川勝元は私使として恵鳳蔵主を同行させている。細川氏が伊予の河野通春との交戦にあたって、大内教弘に援助させようとしたのである。応仁の乱に際し、大内政弘は河野通春らと西軍に応じて山名宗全を援助。柳井津を経由した。文明5年(1473)山名宗全が死亡、次いで細川勝元が死に、同9年11月に西軍の諸将は兵を解き帰国した。その時政弘は柳井津に上陸、陶弘護がこれを迎え富田(現新南陽市)の私邸で宴を開いている(弘護肖像賛)。応仁2年(1468)の「戊子入明員件」(「入明諸要例」第5)によると「可成渡唐船分」として「楊井宮丸700石」、また「唐船事」として「ヤナイ宮丸700石」とあり、対明貿易船がでている。明応2年(1493)足利義稙は細川政元によって将軍職を廃されたが、同9年、大内義興は山口に義稙を迎え、江良「えら」(現山口市)に公館を作った(大内氏実録)。この時、義稙一行は柳井津に上陸している。そのことは岩国の白崎八幡宮の棟札に「明応9年庚申12月晦日、従ニ京都一将軍家至ニ楊井津一御下向於ニ同津一御越年」とみえる。
「近世」
慶長5年(1600)吉川氏は毛利氏から玖珂郡南部を与えられ、岩国藩主となった。楊井・日積・伊賀地・新庄・余田も岩国藩領となって代官の支配を受けた。伊保庄村、平郡島は萩藩領でそれぞれの宰判に属した。寛永3年(1626)の熊野帳以後、柳井と記されている。 柳井津の中心地であった古市・金屋の町割には室町期の姿がみられる。柳井は木綿・塩などを産出し、吉川領の御納戸とよばれた。柳井木綿は原料を配り内職として織り出され、原料代を製品から差し引く綿替制度によって発達した。その生産額は享保初期の浅海家文書に「柳井津嶋屋与惣右衛門、右端物商売致二手広一年中により候ては反数壱万余も到取扱一候趣二相聞、津産物之名も自ら諸国え流布せしめ」とあり、一問屋で年間一万反の実績をあげ、柳井津の繁栄をもたらした。寛政11年(1799)柳井津の新市で木綿の競売りが行われている。
享保2年(1717)12月、新法反対、石銀免除、欠米免除、本藩(萩藩)編入などの要求を掲げた柳井村、日積村などの百姓が一揆を起こし、同5年まで騒動が続いた(享保2年酉年岩国百姓騒動記)。慶応3年(1867)にも伊陸村の百姓が騒動を起こしている。(岩国沿革志)。
「近現代」
明治時代(1868~1912)には県下における問屋商業の町として栄え、その繁栄は周辺の大島郡・玖珂郡・熊毛郡に及んだ。明治30年山陽鉄道が広島から徳山まで開通。明治後期に鉄道が県内に敷設されてからも、海運により貨物輸送が行われ、なお柳井の卸商業は栄えた。大正期(1912~26)に入り経済の不振によって、柳井町中枢の経済機関は大きな打撃を受けた。県内の交通網の拡充によって商業活動は一般化し、大島郡をはじめ周辺は広島や阪神地方と直接取引を行い、問屋商業は不振に陥った。しかしその後、広域都市形成に伴い商業・交通の中心地として、愛媛県松山との航路を開通。さらに工業化の発展が図られている。
明治22年町村制実施時、現柳井市域は玖珂郡柳井村、柳井津町、古開作村、新庄村、余田村、伊陸村、日積村と熊毛郡伊保庄村、伊保庄南村、大島郡平郡村の一町九村であった。明治34年伊保庄南村が阿月村と改称。同38年柳井村、柳井津村、古開作村が合併、柳井町となった。昭和29年(1954)3月、柳井町に日積、新庄、余田、伊陸の四村を編入して市制を施行、柳井市となった。同年五月、大島郡平郡村が柳井市に編入、昭和31年7月に熊毛郡阿月村が、9月に、同郡伊保庄村が編入され、現在に至る。 「山口県の地名」日本歴史地名大系36 平凡社より
柳井の地名は貞永元年(1232)の周防国司庁宣案(東大寺文書)に【楊井庄】とみえるのが早い。中世は山城国妙法院が管理する蓮華王院(現京都市東山区)の荘園であった(三浦家文書)。慶長5年(1600)の検地帳に【楊井庄】とあり、同15年の検地帳にはただ【楊井】と記される。元禄12年(1699)の郷帳に柳井村とあり、近世末期に柳井村と津町に分離した。村名の由来は【御子用明天皇、此浦ニ着給ヒ求レ水、浦人水ヲ献ズ、其水甚名泉ナリ、故ニ井囲ヲ作テ印ニ柳木ヲ植置セ玉フト】という(玖珂郡志)。