日積の歴史年表
◎「日積歴史年表」
BC5000「縄文期」大里遺跡、磨製石斧2 黒島浜遺跡(前期)、宮田・与浦遺跡(後期)
「弥生期」大谷で弥生系石斧、大里遺跡土器、大原遺跡石斧2・土器片
AD 500「古墳期」小国茶臼山古墳、八幡境内、南仲院より土師器片
758「天平宝字2」日積八幡宮を宇佐八幡宮より勧請(社伝)
1300頃「鎌倉末期」大内介知行所領に「日積村」の名初見(東大寺文書)
1352年「観応3年」大内弘世に屈した日積住人「日積弥次郎」、内藤藤時と戦い戦死(閥閲録)→大内氏防長制圧
1373年「応安6年」大内弘世瑞雲寺伽藍建立(郡志)。正読国師を招いて開山とする。「南北朝対立」
1374年「文中3年」大内弘世諏訪神社社殿再建
1387年「至徳4年」若杉不動院大般若経奥書銘あり
1390年「元中6年」小山治部明厳寺を開山
1400年「応永7年」大内氏日積郷南方代官職を杉三郎重茂に宛行う(永田秘録)
1413年「応永20年」日積村の杉重茂跡地(日積南方)をその子熊王丸頼明に相続させる(永田秘録)
1424年「応永31年」日積八幡宮棟札一、初見。松ケ旦鍛冶職の名が見える
1541年「天文10年」大内義隆、厳島神社へ灯明料として日積破石(割石)15石の地を献ずる(野坂文書)
1541年「天文10年」3月21日、割石六面地蔵建立される
1555年「弘治元年」乃美宗勝(浦氏)伊陸において大内残党の一揆鎮圧、小国茶臼山の戦い
1556年「弘治2年」毛利元就、防長進入にあたり、正覚寺守恩に事能要害の在番を命じ、高井、吉村氏加わる
1569年「永録12年」高井彦四郎、大内輝弘の山口侵攻に当り都濃郡椿峠の戦いで戦死(森政文書)
1572年「元亀3年」正行寺が創建される
1601年「慶長6年」吉川広家岩国へ入国。岩国領誕生。日積は由宇組。庄屋は松井氏。刀禰9人。
1610年「慶長15年」検地帳、日積石高3702石
1633年「寬永10年」教徳寺三世円秀の代、寺号公称。
1647年「正保 4年」西善寺五世正秀の代、寺号免許。
1654年「承応 3年」十楽寺移転建立(十楽寺縁起)
1679年「延宝 3年」日積八幡宮の鐘を鋳る(岩国沿革志)
1689年「元禄 2年」由宇組のうち、日積・神代・大畠の三村を大畠組とする「すぐ由宇組にかえるが年代は不明」
1669年「元禄12年」西善寺釣鐘を鋳る(岩国沿革志)
1701年「元禄14年」明教寺五世梅山の代木仏寺号免許
1707年「宝永 4年」10月4日柳井付近強震
1717年「享保 2年」享保一揆起こる。日積玖南の百姓、岩国河原へ押しかけ訴願
1718年「享保 3年」日積・由宇・祖生・伊陸・柳井などより訴願再起。花岡にて訴状を出す。
1721年「享保 6年」3月1日、一揆の処刑行われる。日積、死罪「大里惣左衛門」遠島14人「萩の見島」
1726年「享保11年」岩国領「享保増補村記」編。地図出来る。戸数687戸。人口3148人。
1732年「享保17年」享保凶作、岩国領早害、うんか害で三分一減少。
1752年「宝暦 2年」日積庄屋「松井九左衛門」死去。泰吉庄屋職を継ぐ。
1761年「宝暦11年」反物座を設立。織物を検査。楮(こうぞ)苗植作、由宇組8万2千本。
1776年「安永 5年」日積村年寄、利介楮苗7万本寄附。賞賜る。(御用所日記)
1802年「享和 2年」広瀬喜運(ひろせきうん)「玖珂郡志」を著述。
1824年「文政 7年」大愚和尚入寂(85歳)→萩「東光寺」の住職
1831年「天保 2年」疱瘡医「実地藤五郎(さねじとうごろう)60歳で死去
1836年「天保 7年」稲作・綿作大凶作→1837年「天保一揆」日積百姓動かず。
1865年「元治 2年」大畠・日積の有志農民で「武揚団」結成
1865年「慶応 元年」由宇組、民兵団として忠果団結成
1866年「慶応 2年」熊毛郡「三丘隊」大原西善寺へ駐屯→四境の戦
1866年「慶応 2年」三丘隊→大島口、芸州口へ。武揚団芸州口へ出陣
1867年「慶応 3年」民兵団改編、忠果団は銭山保と改編。日積より43名
1871年「明治 4年」戸籍法の公布、日積第四大区第二小区→廃藩置県
1873年「明治 6年」地券交付、地租改正令公布
1873年「明治 6年」村落日積小学校を教徳寺に置く
1879年「明治12年」「郡区町村編成法」により大区扱所は郡役所小区扱所は戸長役場、玖珂郡日積村となる
1880年「明治13年」「区町村会法」の公布。日積村会を設置。
1880年「明治13年」大里に(学校屋敷)校舎新築。日積小学校として発足
1889年「明治22年」町村制実施、大日本帝国憲法発布
1892年「明治25年」日積尋常小学校、大里尋常小学校として、二校に分離独立する1899年「明治32年」伊陸・日積・由宇村によって、錦向山より天狗岩を経て大原に至る道路開通
1904年「明治37年」集中豪雨、家屋流失、山崩れ、田畑冠水→日露戦争
1907年「明治40年」義務教育六ケ年となる。日積小学校に高等科(終業年限2年)を併置
1912年「大正 元年」大里小学校全面改築→明治天皇崩御
1921年「大正10年」周防鉄道(由宇~日積~伊陸~祖生~玖珂)布設免許を受ける→計画だおれに終わる
1921年「大正10年」宮ケ峠に郵便局が創設される
1922年「大正12年」大原に「日積消防組」が組織される
1927年「昭和 2年」大里尋常小学校へ高等科を置く
1929年「昭和 4年」宮ケ峠に忠魂碑を建立
1932年「昭和 7年」農村経済厚生運動興る
1939年「昭和14年」大干ばつで被害甚大
1943年「昭和18年」日積農業会創立。1941年太平洋戦開戦
1945年「昭和20年」枕崎台風大被害、終戦
1946年「昭和21年」農地改革
1947年「昭和22年」4月 日積中学校新設。六三制実施により小学校六年、中学校三年。「地方自治法」により村長、村議一般選挙
1948年「昭和23年」日積農協創立、農業会解散
1951年「昭和26年」ルース台風大被害・1950年朝鮮戦争
1954年「昭和29年」農村新生運動興る。日積村、柳井市に合併。
(M・T作)