般若姫物語

般若姫の物語は、日本各地に残っている「炭焼き小五郎」の話がもとになっています。

昔、継体天皇3年(509)大分・豊後の玉田(現 豊後大野市三重町玉田)に生まれ、早くに父母を亡くして孤児となり、炭焼きの翁に育てられた小五郎と言う子がいた。やがて翁も亡くなり、その後を継いで貧しい炭焼きの若者となった。
ある日、都から顔にアザのある高貴な大臣の娘、玉津姫がはるばる旅をして、来て、豊後・三重の有名な松原に着いた。そこから小五郎の家を訪ねて、お嫁にしてくれという。小五郎は今晩食べる米もないから、嫁にはできないと言うと、では、これで米を買って来てくださいと、姫は持参の黄金を渡した。小五郎はそれを持って出て、途中、淵で鴨を見つけ、捕ろうと小石の代わりに手持ちの黄金を投げつけた。が、狙い外れて鴨は飛び去り、黄金は水に沈んだ。それで手ぶらで戻り、わけを話した。姫はそれを聞き、あきれて、あれは黄金です。あれだけあれば米も魚も買えるのに、と言った。それを聞いた若者は、あの黄色の石が黄金とは知らなかった。あんな石は、この山の三つの淵や炭焼窯の辺りにいくらでも転がっているといったので、姫は驚き、急いで見に行くと落ちている小石や淵の砂は尽く黄金だったので、二人でそれを拾い集めた。さらに淵の水で身を洗うと姫のアザが治ったので、喜んで小五郎もその水を飲んだり水浴したりすると今度は、小五郎が知恵のある美男子になった。そこで二人は夫婦となり(継体天皇25年531年)、屋敷を建てた真名野原地名から「真名野長者」と呼ばれた。やがて般若姫という娘が生まれ、美人に成長すると都から姫を差し出せと何度も勅使が来るようになった。長者は一人娘だからと断ると、都から無理難題を押しつけられた。しかし、長者は、財力と武力で度重なる天皇の要求をはね返す。するとまもなく、都から姫に恋いこがれた皇子が「山路」と名を変え単身下ってきて長者屋敷の牛飼いとなる。やがて山路は、神の助けにより機会を得て、松原に集まった群衆の前で流鏑馬の腕前を披露し、長者に気に入られ姫と結婚することに成功する。新夫婦の新居を臼杵に建て暮らすうちに、やがて姫は身ごもるが、突然、使いが来て山路は都に呼び返される。それで皇子は泣く泣く「ここを大内山とせよ」と書き付けを残し去る。これ以来、三重の内山の地名が定まった。
やがて赤子を生んだ般若姫は、都に戻った皇子の後を追って、臼杵港から船出するが、瀬戸内海(現 山口県 大畠の瀬戸)で大風に遭い難破し亡くなる。欽明28年(567)悲しんだ長者は、深く仏教を信じ黄金を寄進して百済から蓮城法師など高僧を迎え、蓮城寺(敏達2年、573)や満月寺を建て姫の供養をする。すると反仏教派の守屋大臣が、仏教寺院を建てている長者の行為は我国の神を蔑ろにするもので許せぬと、軍勢を率いて豊後に攻め下る。しかし、長者は大兵を出して迎え撃ち数度にわたりこれを撃退する。勝った長者は臼杵石仏の造立を発願し、幾多の困難を克服して遂に完成させ、後生に残す。
長者は推古13年(605)まで長生きしたという。臼杵には、長者の子孫とされる草刈氏が最近まで居住していた。
(豊後大野市三重町の蓮城寺伝説・臼杵市の石仏伝説・柳井市、平生町の般若姫伝説の四つを照合・整理し一つにまとめた) 。