大島ロの戦い

 

 

◎20171012(木)「四境の役・大島ロの戦い」の歴史散歩に参加しました。「村田邸」(久賀)→幕府軍艦(富士山丸)から発射された砲弾が、住居の壁と大梁を貫き裏側の田畑に着弾した。大梁の大きな傷跡は現在もそのまま残され、砲弾の威力の凄さを物語っている。幕府軍が敗退するとき火を放ち、当家から宗光の住吉神社が見えるほど焼失したと去われている。「弾」は不発弾であるが、砲弾のほか、邸には当時を偲ぶ多くの品々が保管されている。

 

◎大洲鉄然の「覚法寺」

◎「四境戦争~大島口の戦い~」
(1)四境戦争はどのようにして起こったのですか。
四境戦争とは、慶応2年(1866)に起こった幕府と長州藩の戦いです。6月7日に大島口、14日に芸州口、16日に石州口、17日には小倉口において開戦しました。四つの国境が戦場となったため、山口県では[四境戦争]と呼ばれています。四境戦争に至る経緯は、元治元年(1864)7月19日の禁門の変によって、長州藩が朝敵となったことに始まります。第一次長州出兵は、長州藩が幕府に恭順の姿勢を示したことで撤兵令が出されましたが、長州藩内では高杉晋作の挙兵によって内乱が起こり、恭順の姿勢を示しながら軍事力強化をすすめる[武備恭順]に方針転換しました。このような長州藩の動きに対し、慶応元年(1865)4月19日、長州藩への再出兵が決定されたのです。
(2)大島口にはどこの藩が攻めてきたのですか。
幕府は、慶応元年11月、各藩に長州藩再出兵の動員を命じています。出兵命令段階では、大島ではなく、山口方面に進軍できる上関に四国諸藩を配置していました。海を隔てて大島と隣り合わせの伊予松山藩、宇和島藩・徳島藩・今治藩なに出兵が命じられましたが、実際に大島まで進軍したのは松山藩だけでした。今治藩は、一番手を出陣させましたが、多くの藩が出兵していないのは[天下の人心]が一致しているとは言えないとして大島までは進軍しませんでした。また宇和島藩は、イギリス公使パークスの来藩などを理由に出兵を拒否しています([愛媛県史 近世下])。このように、四境戦争では、幕府の出兵命令に従わない藩も多くみられたのです。[維新史回廊だより第14号より]。
(3)大島口はどのように開戦したのですか。
慶応2年(1866)1月22日、幕府は、長州藩に領土10万石の削減などの処分を決定し2月から5月にかけて長州藩へ処分を受け入れさせる交渉が広島で行われました。しかし、長州藩は処分を受け入れず、ついに6月7日、幕府軍艦の上関砲撃によって四境戦争が開戦します。家老職を歴任した浦ゆきえは、給領のある阿月に隠していました。上関と同じ熊毛半島にある阿月において、浦ゆき負は6月7日の子を次のように日記に記しています。[午前10時頃([四ツ時分])、蒸気船が関の横島近辺から白浜を砲発した。四・五発のうち一発は千葉岳に撃ち込まれニ発は海中に落ちた。それより、蒸気船は大波に出て、大島郡安下庄あたりで・五発の砲声があった。]この日、大島郡代官所からは、蒸気船一艘が安下庄沖合から四発砲撃し、そのうちニ発が竜崎の海中に落ちたと報告がありました。この蒸気船は幕府の軍艦長崎丸で、この後、宮崎から来た幕府の軍艦が久賀村の前島に碇泊しています。10日の段階では、第ニ奇兵隊の林半七が[今日にも戦いになると考えていたが五艘の軍艦は二艘になっており、正午になっても何もおこる様子がない]と報告しているように、しばらく軍艦からの攻撃はありませでした。([六月十日世良修蔵・其他宛林半七書簡]徳正寺所蔵)。ところが、11日、幕府の軍艦が久賀へ向けて頻りに発泡をはじめ、幕府兵が400人ほど上陸して久賀を占拠しました。一方、松山軍も6月8日、大島に進軍しており、11日は安下庄に上陸し、陣所を構えて占拠しました。長州藩側は、大島郡代官斉藤三郎兵衛の率いる隊などが応戦していましたが、11日に遠崎へ退去し、大島は幕府軍と松山軍に占拠された状態になってしまいました。
(4)長州藩政府は大島口にどのような命令を出したのですか。
藩政府は、六月七日以降の戦況報告を受けて、十日付で第二奇兵隊と浩武隊に大島に進軍することを命じました。また、同時に丙寅丸(へいいんまる)にも大島行きを命じ、高杉晋作に乗り組みを命じました。丙寅丸とは、慶応二年五月、高杉が独断でグラバー商会から購入した九十四トンの蒸気船で、アームストロング砲を搭載していました。海軍総督を命じられていた高杉は丙寅丸に乗り込み、大島口に向かうことになります。十二日、丙寅丸は、午後二時頃に遠崎に着岸し、深夜零時から前島に碇泊している幕府軍艦に数十発砲撃しました。この後、小倉口に向かった高杉は、乙丑丸(いっちゅうまる)を率いる坂本龍馬とともに小倉口と戦うことになります。大島口では、高杉の夜襲攻撃を足がかりとして、十五日には第二奇兵隊や浩武隊が大島に上陸し、幕府軍・松山軍との戦闘が開始されました。