正覚寺周音(守恩)の城
【正覚寺跡】由宇町大字由宇寺迫。
寺迫(てらさこ)の地にあった禅寺で、岩屋山と号した。【享保増補村記】によると江戸中期には跡地に観音堂が一宇残っていたらしく、【正覚寺トイへル禅ノ大寺アリシ跡ナリ、寺八破壊シテ本尊計残レリ、古記ヲ考ル二、弘治元年、大内輝弘御退治ノ時、正覚寺周音(守恩)手勢八百余ヲ引率シテ、海辺ヨリ随浪院様ノ御味方二参リタル由見へタリ、寺跡ノ南二城山トテアリ、上ノ平ラトイヘル寺ノ方ヨリ上ル古道形アリ】と記し、続けて岩洞泉寺(とうせんじ)の僧松尾が、吉川広家に従い出雲より当国へ移った際、まず正覚寺に寓居したと記す。【玖珂郡志】には、その後洞春寺の建立によって【此寺ノ材木、筑前へ被レ遣タル由】とあり、頭注に応永19年(1466)11月付の文書などを載せる。
◎[玖珂郡志-由宇郷]
p413
一、寺廻[観音堂]。往古、岩屋山正覚寺古跡也。今、小庵也。禅ノ大寺ノ跡ナリ。永禄十二年十月[[隠徳記]ニハ元亀元年トアリ、[岩国府志]
ニハ弘治元年トアリ]大内輝弘御退治ノ時、由宇正覚寺周音、手勢八百余ヲ引卒シテ海辺ヨリ元春公ノ御味方ニ参タル由、見ヘタリ。イカナル故ニヤ大破 セシヲ、広家公御打入ノ節御取立。出雲国ヨリ御供セシ松尾和尚、寓居シテ御寺相勤、洞春寺御建立以後、此寺ノ材木、筑前へ被遺タル由。
南方ニ城山アリ。茶臼山ト云。寺ノ方ヨリ山エ上ル本道、形アリ。雨降ラントスル前夜、必火燃ル也。[博物志]ニ云、闘戦死亡ノ処、其人馬ノ血、積年化為燐アリ。血ニアラズ、人馬ノ油ナリ。
◎正覚寺周音に従って高井氏は日積に侵入する。鉄砲の名主として活躍し毛利隆元から感状をもらっている。〔柳井市史〕。