久保白船

 

○久保白船
1884年、平生町佐合島に生まれる。山口中進学で島を離れたものの、実家のしょうゆ醸造業を継ぐため、5年で島へ戻った。子どもの教育環境を考えて1920年に周南市へ移住。書店やだばこ販売店などを営んだ。地元の文芸人とともに「徳山文芸協会」「徳山美術協会」を相次いで創立。
自由律俳句では、種田山頭火、江良碧松と「周防三羽がらす」と呼ばれた。
41年、57歳で死去。
青波わたる、それがとんぼう
この句は1940年10月、山頭火が亡くなったとの知らせを受けて、松山市に急行する際の句である。船が瀬戸内海の穏やかな青波を突っ切って進んでいる。白船は船上で40年近い交友を回想している。出家して四国に渡った山頭火と、その山頭火の骨を抱きに四国に向かう自分とを、海の上をスイスイと進むトンボに重ね合わせた。無二の親友を対象としないと生まれない句である。白船は山頭火の死後、半年余りで急逝した。
平生町郷土史研究会会長 瀬川氏