尾崎原地蔵堂

 

中山方面から国道437号線を分かれて、旧国道を大里方向へ150mぐらい行くと、右手上方に雑木林が茂った尾崎山があります。その木立の中に地蔵堂があります。今は、この地区の公会堂として使われている建物です。

地蔵堂のご本尊はもちろん地蔵菩薩であり、塔は丁度そのご本尊と相対する形で佇んでいます。

この塔は享保2年(1717)から3年にかけて、当時の岩国領内を揺るがせた、百姓一揆の責任を追求して処刑された人達の供養塔といわれています。

百姓騒動、いわゆる享保一揆の発端は、日積村農民の、苛酷な年貢取り立てに対する、岩国蔵元への直訴請願行動が由宇組・玖珂組・柳井組を巻き込んだ岩国領南部全域におよぶ大騒動です。享保2年12月、岩国川西の河原に、数百人の農民が押しかけて直訴に及びました。
訴状の主旨は、物成り(年貢)の軽減、欠米(付加税)の免除、畑租の銀納等です。2日間に渡るやりとりの末、蔵元側も遂に折れて、農民の要求を入れた内容のものを各代官あて通知しました。

ところが、今度は山代・河内組の北部の蔵入地農民や、日積を含む各地の庄屋から、改正反対の意見や書面が提出されますと、翌1月28日には、一転して改正告示を撤回して訴訟の棄却を通告しました。
これを聞いて怒った一揆農民は、密かに再起のことを謀議していましたが、岩国の政府は弾圧に乗り出し、2月9日に日積・由宇において5人を別件逮捕しました。これで一揆農民はますます反発して、由宇の者を先頭に伊陸・祖生・日積・柳井等岩国領南部11個村総勢1700人余りが、今度は宗藩(萩)宛の訴状を書いて花岡へ繰り出して請願し、2月19日に各自の村に引き上げました。

宗藩は岩国と協議して若干の条項を容認した裁定を伝えようとしましたが、農民側はこれを拒んで、改めて連判状を提出して、はじめて本藩領に編入の要求をしました。
宗藩としては要求を聞き入れるわけにはいかないが、当年の年貢収納を穏便に済ますために萩より岩国に役人を差し出し蔵収納の立ち会いの提案をしました。この提案は岩国側からは内政干渉も甚だしいものと解釈されて、緊張と動揺が起こりました。これに先立ち宗藩と岩国の間では、吉川家の家格昇進問題(吉川家は正式の大名の待遇が与えられていなかった)がありました。

宗藩が本気で幕府へ周旋してくれないからだという気持ちが強く、宗支藩の関係はしっくりしておりませんでした。宗藩がこの一揆を利用して領地併合の挙にでるのでは、との疑心暗鬼から吉川家中で意見対立があり内部分裂の危機もありましたが、翌4年5月ごろまでに結束をみました。
宗藩でも、同年10月には宗藩領山代・大島などから百姓訴訟があって、一揆波及の兆候が出てきて早期解決を得策としました。

まず、11月に首謀者と見られる者28名を萩に召喚して吟味がはじまりました。明けて5年1月6日萩から訴状の願いを採用されない旨を申し渡しました。岩国では、家老の当職を免じて関係代官も免職して、藩政再建に取りかかりました。その後、宗藩では一揆側の処罰についての吟味が続て、翌6年3月1日、斬罪八人・遠島21人の判決で一件の落着をみました。
日積村からは、大里の惣左衛門が処刑、宗行の徳兵衛以下14名が遠島に処せられました。遠島の14名は、萩沖の日本海に浮かぶ島で生涯を終えて、ついに故郷へ帰ることはありませんでした。
さて、この一揆勃発が、弱い農民が犠牲になったことは疑いようがありません。
宮の下の村中啓一氏の研究によれば、この三界万霊塔は享保騒動のほとぼりもおさまった頃、地蔵堂の堂僧 根誉源心大徳(文政9年12月10日没)が無縁墓を一括して、享保の犠牲者の霊を供養するために建立したものであろうと言われています。その堂僧の墓は、供養塔のすぐ隣に建っています。大里の惣左衛門は、大里の鍵山家の先祖の一人ではないかとも推測されています。
地蔵堂では、今も毎年3月17日に、土地の人々によって供養が行われています。