小国茶臼山
《小国茶臼山》
日積の小国にある茶臼山は、なだらかな山並みが、ひときわこんもりと盛り上がった形をしたところで、あたかも茶を挽く臼のように見えるためか茶臼山と呼ばれています。
大昔には円墳であったといい伝えられていますが、中世の頃に山城が築かれていました。
玖珂郡志に、「小国城山。本丸三間半ニ四間程、廻リ三段、西ニ堀切、二。城主不分明。一説ニ重藤因幡守ト云者、住居セシト申云。上ノ平ミニ城主墓トテ石畔有。此城山ニ登リ化女ニ逢バ、即病気トナル故ニ姫ケ城ト云。城山ノ南ノ原ヲ城ケ原ト云。首塚トテ小高キ所アリ。一説ニ、所ノ地下人、同所茶臼山ニ小城構住タルト也。然ルヲ海賊槇尾山ヨリ取リ掛ケ、合戦ニ及。其時ノ首塚ト云。形、今ニ有之。又、一説ニ此山ノ西ニ、トウゲン山ニ敵籠リ戦タルトテ、此山ニモ首塚アリ。」とある。
城主に重藤因幡守が住んでいたところから、因幡ケ城ともいっていたようです。
この城には、化女が住んでいて、山中でこの化女に出会うと、すぐに病気にかかってしまうと恐れられ、姫ケ城ともいっていました。
この茶臼山に城が築かれた時代は、戦国の世の中で群雄が割拠し、下克上の横行する時代でした。
陶晴賢が大内義隆を山口に急襲し、長門の大寧寺で自害に追い込み、滅ぼしました。大内氏に関わりをもつ日積の住民は、茶臼山城を中心に自衛につとめたことでしょう。
広島の安芸に勢力をもってきた毛利元就は、大内氏の弔い合戦だといって、弘治元年10月(1555年)陶晴賢の軍と厳島で戦い、陶晴賢を滅ぼしました。戦いに勝った毛利元就は、軍を周防に進めて来ました。毛利軍の水軍であった小早川隆景の兵は、由宇に上陸して、西に進行して来ました。
海賊が襲来したと、茶臼山城の兵士は、備えを固め防ぎょにあたりました。
茶臼山の北側に谷をはさんで、道見山に陣取った小早川軍との間に壮絶な戦いが繰り広げられました。
茶臼山と道見山の間にある谷川に深い淵があり、地元では、丑鬼といって恐れられている所です。丑鬼とは、水中に住む魔物で、頭は獅子で体は牛の姿をしています。
昔、稲作農民が雨乞いに牛を犠牲にして祈ったものが化けて出てくるといわれ、恐れられているものです。
この丑鬼のいわれに気づいた茶臼山城兵は、牛の角に松明をつけて放しました。戦勝に意気盛んな小早川兵も、恐れおののき犠牲者を出したようです。この茶臼山城を中心とした弘治の役で、戦死した兵士を埋葬したといわれる首塚が、城山の南の城が原にあります。
また、小早川軍のたて籠もった道見山にも、首塚をみることができます。