国木田独歩
◎「国木田独歩と岩国・柳井地方」
明治の文豪国木田独歩は1871(明治4)年、千葉県に生まれたが、父が山口県下の裁判所勤務となってからは、岩国町、山口町など山口県内各地を転住した。1888年に東京専門学校(現 早稲田大学)に入学し、1891年3月に中退してからは父母の下に帰省し、麻郷村の吉見家、麻里府村の浅海家に住んだ。吉田松陰を崇拝していた独歩は、松下村塾で講義をした事のある富永有隣を訪ねてその影響をうけ、田布施村「長合」に波野英学塾を開設したが、5カ月で閉鎖した。富永有隣は、独歩の作品「富岡先生」のモデルであるといわれる。また、1892年2月から6月にかけては、柳井の堀江家・市山家に住み、その後大分県に移った。市山家は現在、国木田独歩記念館となっている。1894年8月には再び柳井に戻り、藤坂屋に1カ月間住んだのち上京し、再び山口県に戻ることはなかった。「河霧」「画の悲しみ」「帰去来」「酒中日記」「少年の悲哀」などの作品は、とくに青春の一時期をすごした柳井での体験がモデルになっている。
現在、岩国の吉香公園内や田布施町麻里府公民館、平生町田布路木峠などに独歩ゆかりの石碑がたてられている。また、藤阪屋の三角餅は、彼の小説「置土産」のなかに登場して広く知られるようになり、柳井を代表するみやげの1つとなった。
◎[国木田独歩と藤坂屋]この藤坂屋の向かって右側の建物は明治の文豪国木田独歩一家が居住した家である。明治27年(1894年)父専八は家族とともに、柳井市姫田の市山医院からここに移住した。その頃独歩は大分県佐伯から引き揚げて上京するまでの1ヶ月間ここに住んだ。その頃の作品として[置土産]かあり、独歩にとって柳井は忘れがたいところであった。なお、この庭の[置土産]の碑は、独歩が岩国小学校在学のとき、同級であった代議士永田新之丞氏のきごうによって、昭和43年に建てられた。現在、岩国の吉香公園内や田布施町麻里府公民館、平生町田布路木峠などに独歩ゆかりの石碑がたてられている。また、藤阪屋の三角餅は、彼の小説「置土産」のなかに登場して広く知られるようになり、柳井を代表するみやげの1つとなった。
◎国木田独歩
独歩は明治9年、父・専八の山口裁判所勤務に伴い、東京から西の果て山口にやってきた。以後18年間、専八が岩国・山口・萩・楠・平生・ 柳井と転勤するとともに、それに従い、各地に多くの足跡を残した。彼は「田舎」を賛美した作家であった。その田舎には、若き日に過ごした 山口県の美しい自然と温かい人情が示唆されておりこれを機縁に「少年の悲哀」「酒中日記」など数々の名作が生まれた。
「少年(こども)の歓喜(よろこび)が詩であるならば、少年(こども)の悲哀(かなしみ)もまた詩である。自然の心に宿る歓喜(よろこび)にしてもし歌うべくんば、自然の心にささやく悲哀(かなしみ)もまた歌うべきであろう。
「少年の悲哀」(明治35年)の冒頭文から」
平生町水場が舞台である。