柳井にっぽん晴れ街道

「柳井にっぽん晴れ街道」
江戸期、柳井市には主要な二つの往還道が通っていた。小瀬(岩国市)から上関までの「小瀬上関往還」と、岩国から堅ケ浜(平生町)までの「岩国堅ケ浜往還」である。この二往還のうち柳井市内を通っている部分を「柳井にっぽん晴れ街道」と名付けた。柳井市は日照時間が長く、比較的晴れの日が多いからである。この街道は豊かな歴史や文化をいまに伝えるものとして、国土交通省中国地方整備局などで構成する「夢街道ルネサンス推進会議」から「夢街道ルネサンス認定地区」として認められた。このたび、地区ごとに江戸時代の古地図と現在の地図を並べ、昔と今を比較しながら街道散策を楽しんでいただける本が完成した。柳井市を中心とする書店で販売しているので、ぜひ手にとって見ていただきたい。
合わせて約43kmに及ぶこの街道は、米を始めとする産物の輸送に重要な役割を果たしていた。また、「清狂草堂」(遠崎地区)や「克己堂」(阿月地区)に通ったであろう維新の志士たちが往来する道でもあった。馬が荷を背負って、人が草鞋(わらじ)を履いて幅3尺の道を通っていたのである。
ロマンあふれる街道についてこれから述べてみたい。

朝鮮通信使接待
前回、「柳井にっぽん晴れ街道」について述べたが、この街道は上関に向かっている。上関は古代より潮待ち風待ちの良港であった。また、かつて中津城に居た黒田官兵衛(如水)が上関に早舟を置いて、いち早く情報を得ようとしたように、畿内と九州を結ぶ瀬戸内航路の要衝であった。
江戸時代には、朝鮮からの通信使が往路で11回も入港している。萩藩(毛利本家)は上関を直轄地とし、番所を置いて海上警備に当たらせるとともに、岩国の吉川家に補佐を命じ通信使の応接にあたらせた。そのため岩国から上関に赴任する役人や接待のための物資を輸送する街道が重要な役割を果たしたのである。通信使一行の人員は400~500人で、上関では正使・副使など上役の者は、御茶屋を、その他随員は、超専寺や民家などを宿舎にした。大人数のため船の用意、人夫・食料の手配、接待は大変であろう。しかし、朝鮮側の記録には「長門守の御馳走西国筋にて一番結構なり」とある。
現在、上関町では、毎年朝鮮通信使寄港の歴史をたどる祭りを開催している。また、超専寺に残る「朝鮮通信使船上関来航図」の世界遺産登録を目指している。

街道と吉田松陰
街道と言うと、吉田松陰を思う。腰に数束のわらじをさげ、一途に歩く松蔭の姿をつい思い描いてしまう。彼はその短い生涯の中で、広く全国を歩いている。幕末の志士のうちで、彼ほど諸国を旅している者は珍しい。西は熊本・長崎から、北は青森、津軽まで、四国にも、佐渡島にも渡っている。彼の知らない地方は出雲から能登へかけての山陰、北陸の一部だけだと言ってもよいだろう。
彼は1830年に生まれ21歳で初めて長崎街道を通って九州平戸に山鹿流兵法の勉強に行ってから、1859年29歳のとき江戸伝馬牢で処刑されるまで、全国を歩き通した生涯であった。皮肉なことに、後13年生きていれば、西洋文明の象徴ともいえる蒸気機関車に乗れたのである。
松陰の旅は、各所史跡を訪ね風景を楽しむのではなく、人に会って話をし、本を探しながら、学ぶために歩く旅であった。
彼は数度九州を訪れているが、二度目は肥後街道を通って熊本に向かっている。この旅で彼の一生を左右した運命の人物「宮部鼎蔵(まなべていぞう)」に出会う。このことについては次回述べてみたい。

肥後街道
肥後街道は、大分県鶴崎から熊本までを結ぶ 124km(31里)の道のりで、加藤清正が整備した参勤交代道である。吉田松陰をはじめ、勝海舟・坂本龍馬もこの街道を通った。もちろん伊能忠敬も調査している。吉田松陰は、鶴崎~小無田~坂梨~熊本と、腰にさげたわらじを取り替え取り替え、なんと三日間で歩き通したという。驚きである。
熊本では、宮部鼎蔵に会っている。鼎蔵の生家跡の近くの公園にある顕彰碑や歌碑が熊本地震で被災したが、復旧工事が完了したという新聞記事を目にした。この背景には、鼎蔵と親交があった長州藩の吉田松陰を顕彰する萩市の住民らが、義援金を送るなどして早期の復旧につながったという。鼎蔵は同じ山鹿流兵学を修めた縁で10歳年下の松陰と知り会った。外国船の接近で緊張が高まる国防の状況を見るために、東北を一緒に旅するなど、藩を超えて交流した。松陰が安政の大獄で刑死した後も鼎蔵は長州藩の志士らと行動を共にしたが、京都で起きた池田屋事件で新撰組に襲われ自害した。
この肥後街道を地元の中学生が、三度笠姿で歩き通す体験学習を行っているという。吉田松陰と宮部鼎蔵の志を同じくした深い友情についてもしっかり学んでほしいものである。
中津街道
中津街道は、周防灘沿岸域を南北に走って小倉と中津を結ぶ、北部九州における主要道の一つであった。豊前大里または小倉城下の常盤橋を発し、同城外郭の中津口門を通って中津城下、さらに豊後府内城下へ続く道筋てある。大里から中津までは小倉道や中津道、それより先の宇佐までを勅使街道、豊後府内までを豊前道・豊後道とも呼んだ。
この街道については、大学生の頃の思い出がある。帰省のある日、飼い犬の尻尾を踏んでしまい踵をかまれて中津の病院にバスで通うはめになった。100mほど続く立派な松並木を車窓から目にして、なんでこんな所にあるのだろうと不思議に思ったことを覚えている。今思えばこれが中津街道の一部であったのである。
宇佐神宮には、この街道を通って、国家異変や天皇即位のとき奉告や祈願の奉幣をする勅使が派遣された。なぜ都から遠く離れた九州の辺鄙な宇佐という地に勅使が派遣されたのか。今だに謎である。日本の歴史の中で有名な弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の皇位継承事件の際、勅使として和気清麻呂(わけのきよまろ)が姉広虫の助言を得て、宇佐神宮に派遣され奉幣し神託を受け、道鏡が皇位に就くことを阻止した。
中津街道が勅使道といわれるゆえんである。

街道と歴史人物
街道についての原稿を書いているとき、ある中学生の次のような新聞記事を目にした。『僕は将来、趣味でやってみたいことがある。それは昔、江戸から地方に延びていた「五街道」、つまり東海道・中山道・奥州街道・日光街道、甲州街道を歩いて旅することだ。僕は歴史が好きでテレビでよく歴史番組を見る。ある日、五街道について放送していた。それぞれの街道には深い関わりのある人物がいること、また埋もれた歴史もあるということが分かった。それが僕の研究心をくすぐり、歩いてみたくなったきっかけだ。知ったことを自分の目で確認しながら、埋もれた新事実を探す旅をしたい』。この文を見て、かつての私と同じ思いをしている中学生が今いることに感激した。
以前「肥後街道」について書いた折、吉田松陰と宮部鼎蔵の友情について触れた。熊本地震で被災した宮部の顕彰碑や歌碑の復旧のために義援金を送った萩市の住民の代表の方から、先日丁重な手紙をいただいて恐縮している。八十路前の方だが、熱い想いで活動しておられることに頭が下がる。
かっての街道は、物資の輸送や情報を運ぶとともに人と人を結ぶ大変重要な役割を果たしていたのだと改めて思う。そして、それが現在に生きている。

街道と鉄道
生涯街道を歩き通した吉田松陰の死後13年経った明治5年、 新橋~横浜間に日本で初めて鉄道が開通する。この線はやがて延長され東海道線と呼ばれるようになり、またたく間に日本中に鉄道網が敷かれるようになった。
では、なぜ明治の日本で全国的な鉄道網が比較的スムーズに形成されたのだろうか。この疑問に答えるためには、江戸時代の街道網を考慮に入れる必要がある。江戸時代にオランダ商館付の医師として来日したケッペンは、小さな島国に日本橋(江戸)を中心とする全国的な街道網が確立されていたことに驚き、次のように述べている。「日本国内の仕来りに従っていると、上りの、すなわち都に向かって旅する者は道の左側を、下りの、つまり都から遠くへ向かう者は右側を歩かねばならない。これらの街道には、旅行者に進み具合がわかるように里程を示す標柱があって距離が書いてある。旅行中自分たちが日本橋からどれだけ離れているかを、すぐに知ることができる」[江戸参府旅行日記]。
今の日本の鉄道網があるのは、長州ファイブの一人で、命を張って鉄道の基礎を築いた「鉄道の父」井上勝のおかげと言っても差し支えないだろう。次回は最終回になるが、長州ファイブについて記したい。

長州ファイブ
先日、萩市が語学研修でイギリスに派遣していた中学生「長州ファイブジュニア」5人の帰国報告会があった。5人はこの体験を通して、「自分を自分らしく表現することや自己主張の大切さ」をはじめ多くのことを学んだようである。実は幕末萩藩で鎖国といわれる当時にあって、ひそかにイギリスへ渡った若者たちがいた。まげを切り、洋服をまとった5人の若者の写真が残っている。撮影地はイギリスロンドン。当時の日本の状況からいえば、驚くべきことである。その長州ファイブの一人が井上勝である。彼は、1863(天久3)年英国で鉱山と鉄道について学んだ。1868(明治元)年に帰国後、初代鉄道頭となり、日本初の鉄道となる新橋~横浜間の敷設にあたった。1872(明治5)年10月14日に開通。
彼が希望していた留学先とはイギリスであった。なぜだったか。それは日本と同じ小さな島国ながら、いち早く産業革命を達成し、交易を活発に行って国を富ませ、強大な海軍力を背景に世界に君臨していたからである。当時のイギリスはまぎれもなく世界唯一の超大国であった。街道の時代も鉄道の時代も先進的な知識を学び、新しい時代を切り開いていく人が存在したことに思いをはせながら筆を置きたい。