大愚和尚

萩東光寺中興の禅僧
「大愚和尚伝」   村中啓一著
第一章 東光寺と大愚和尚
萩の東光寺といえば、人も知る毛利公、代々のお墓のあるお寺であります。その本堂(大雄宝殿)の大鬼瓦は、テレビドラマ「太閤記」でタイトルバックになって全国の茶の間におくられたことがあります。それを知る人は少なく萩を訪れた人は、大きな伽藍を見て、中国唐のお寺にお参りした心地がするともいいます。
さて堂塔をつぎつぎと巡って瑞雲橋を渡り薄暗い小門を入ると、廟内には石だたみが敷きつめてあります。有名な490余りの石灯籠が整然とならび、その眺めは、まことに壮観であり封建藩主の威容をひしひしと感じさせます。
この無塵の勝地に緑を背にした角柱のお墓が5つ静かに立っています。これは、萩毛利三代吉就(なり)、五代吉元、七代重就(しげたか)、九代斉(なり)房、十一代斉元公夫妻の碑であります。
私がこの東光寺という寺の名を知ったのは小学生の頃で、今生きていたら、百数十才になるはずの祖母が、わが家の仏間で古くなっている一幅の軸を見ながら、話してくれた次のことを聞いてからであります。「何でも、萩というところに、お殿さまの寺があって、そのお寺の住職となった大愚和尚は、中山の大段から出なさった方だそうな、幼ない頃には、仕事がきらいで、寝てばかり、近所の人でもめったに遊ぶ姿を見たことがなかったそうな。その頃は、大変な凶作であったが、高い年貢をとりたてて、威張っている役人の姿を見て、村の人達は恐れおののくばかりであったそうな。
ところが大愚は、百姓のみじめさをまざまざと見て「おのれ代官、いまに見ていろ、おれは、お前達より、もっと偉い人になって見せるから」と発憤し、決心されて小僧となり、学問や修業を積まれ、とうとうお殿さまも尊敬される偉い坊さんにおなりなされたそうな。」
祖母の話は、なおつづき、「ある日、おうかんを、下に下にと行列の声。里の人たちは、無礼があってはならぬと道に土下座してお通りを待っていた。
ところが、そのお籠には長いまっ毛の大愚和尚がお乗りなされていて久しぶりの里帰りでありました。その時村人の中より一人の老婆を見つけた大愚和尚、「田中(筆者の屋号)の叔母さんお達者か」、と籠を止め、幼い頃世話になったその老婆に、一幅を記念としてさし出されたのがこの軸だということであります。
それは、「祥海福波」と流れるように書かれた文字で、大切にしなければならないものと思いながら、祖母も私も、伝説のまた伝説として伝え聞いたものであります。
果たしてそのオオバカと読める僧が、実在した人物かどうかを確かめたく思い、私は昭和44年夏、維新胎動の地、萩を訪ねて東光寺の山門を初めてくぐり、運よく現鬼武住職にお会いでき、鑑定をお願いしましたところ、「大愚さんの書にまちがいないです」とのお話を承わり、確信を得ることができました。鬼武住職は、さらに東光寺に伝わる色々な大愚和尚の書を持ち出して、こんなことを話されました。「県内にも、あちこち大愚さんの書はあるけれども、少し文字にふるえが見えます。だが、それは大愚さんの晩年の書で、いきおいのよい伸び伸びしたものは、まだお若い頃のものでございましょう。」さらに住職は、東光寺の由来について次のようなお話も聞かせてくださいました。
「この大伽藍は、防長藩主毛利吉就(なり)公の願によって開かれた黄檗宗の寺で、護国山東光寺といいます。寺を建てるには、必ず開基と開山と二人が必要であり、開山には当時黄檗の名僧慧極道明をよびよせられました。そもそも黄檗とは、どんな宗教かといいますと、承応三年(1654)長崎に渡来した明の僧隠元(いんげん)禅師が開かれた仏教で、禅宗の中で一番遅く日本に入った臨済宗の一派であります。隠元は、日本に渡る時に、中国から、豆の新品種(いんげん豆)をたずさえたことで有名ですが、それより彼は後水尾法王のご信仰が厚く、宇治に黄檗山万福寺を建てられました。
東光寺はその万福寺の末寺です。さてその頃の日本は、ご承知のとおり鎖国で、長崎が唯一の窓でありました。ヨーロッパ人がアジアを植民地にした情報は、風の便りに明僧が伝えてくれることも多く、信仰と修養だけでなく、そのかげに情報の提供も禅僧はおこなったようです。それだけ、でもありますまいが、幕府、大名など武士道と結びつく心の糧として尊信し、あるいは法要を問い、あるいは偈賛(経をたたえること)を請い、領内に寺院を建て、礼を尽くしました。ここ東光寺も、家臣某氏の別荘地であったものを買いあげて建てられたものといわれております。
さていまから二百数十年前のお殿さまの寿命というものは、大そう短かく、平均して30才前後でみんな世を去られました。庶民もまたまことに短命であったようでありますが、ところで大愚和尚はなんと、87才という天寿を全うしたといいますから、この一ことで彼がただの普通人にない強健な身体の持主であり、当時の栄養状態とか、修行とかから考えあわすと、よほどの精神力の優れている人でないと、とてもこれだけの長生きはできないわざであります。
ところが長寿だけでなく、東光寺300年の歴史の中で、彼、15代大愚和尚が住山した満16年間が最も栄えた時代であったようであります。これは、大愚和尚その人の偉大な人格と優れた識見によるところが多く、防長の名僧の一人に数えることができると考えるは私一人ではありますまい。彼の色々な問答も残っていたようですが、寺禄は失われ東光寺も困難な時代を乗り越えて来た間に散逸してしまい和紙に書いたものは拝見することができませんでした。
「大愚和尚のことがもっとお知りになりたいのであったら、高森、通化寺(つうけいじ)の百才になられる和尚さんがいらっしゃるのでお訪ねになってごらんなさい」という東光寺の指示をえて寺を出ました。萩、柳井間は今では4時間、しかし二百数十年の昔のこと、この間を何日を要したことでありましょう。家路につきましたが、これを動機に私はその後、また萩東光寺、高森通化寺や通津知足寺跡、景福寺、岩国大円寺、徳山自得寺、県文書館、県文化課と、大愚和尚に関する資料が少しでも見つかりはしないかと暇を見つけては探索いたしました。その他、山口県文化史、山口県の歴史、東光寺誌、近世防長人名辞典等参考文献をあさりつづけて探し、東光寺中興の僧、大愚和尚の生涯をまとめあげることは、私の先祖がいただいた一幅の書の、おかえしでもあり使命ではあるまいかと考えました。
それからまた、一つには、雲水の生活や生涯は現代の物質万能、豊かな社会における、私達若い世代にたいする警鐘にもなるものがあるのではないかと考えたからであります。
第二章 凶作のつづく時世
徳川8代将軍吉宗公の世を享保年間といいます。その頃山口県では、明倫館を創立された、毛利家5代吉元公の時代でありました。ここ数年、来る年も来る年も、台風が本土をおそい、その上西日本一帯は「いなご」の害虫が大発生し、大群はあちらこちらの村々を飛びまわり、稲を食い荒らし、防除する農薬もなく、農民は困り果てておりました。無残な風水害の上に、旱魃も重なり、日照りが続くと、各地に水の争いも起って、食べ物が無く、転々と流浪する人々も大ぜいありました。山代地方(玖珂盆地)あたりで餓死者、300人という記録も残っています。
ところで、米を作る百姓でさえ、主食はくず米をうすで粉にし、それに煮えたぎる湯を加え「ねばり」と称し、塩をつけ食べることは普通の家庭であったのであります。地方によっては、凶作がつづくと、「だいぬか」といって、うすひきに飛び散って積る粉を、「ねばり」に混ぜ、量を増したと伝えられています。こうして収穫が少なければ、何とか自家消費を切りつめるのは当然のことで、聞くにたえない事件もあったといわれています。
さて、この頃一番上等なお米の飯は、米3割に麦7割の麦ごはんでしたが、どこの百姓の家庭でもこれにあずかれる家は少なく、茶がゆが盛んに作られていました。「かゆ」といっても、それはしゃもじですくいあげて見ると中には、米粒の他に、さつま芋とか、ねばり団子がそのしゃもじにひっかかる始末で、水ばかり。このことを、古老のいい伝えにおもしろく、「そうそう(祖生)いかち(伊陸)ひずみ(日積)の茶がゆに団子」という当時のシャレ言葉があって、今になお語りつがれております。それからまた、百姓を「だいごべえ」ともよび、屋根は、瓦ぶきを禁じられ、木綿に、わら草履、絹、ちりめんの類は着ることができませんでした。それは、士農工商の身分により、長い封建社会での生活のきまりで、取れたお米の大部分を年貢として納めなければならないこととなっていて、贅沢な生活は、とてもできるものではなく、むしろ当然なこととされて、茶がゆも、長い間の生活の知恵として習慣化され、奨励されて今日に及んでいるものであります。
さて、享保2年の冬、当時吉川径永公の頃であります。年貢米直送について代官、山県忠兵衛をへてお蔵元に願出が出され、これが拒絶されたことがありました。そこで、由宇の百姓75人が岩国西河原で抗議しましたが、なだめられて引き上げました。これがきっかけとなって、減免ならびに上納の方法について、不満がつのり、12月再び日積、玖珂、祖生、柳井、新庄の百姓数百人が交渉のため押寄せました。
吉川家の記録によると「百姓共之装立は、下には能き衣類を着ししも、上には何れも破れたる古装をまとい、手棒(六尺棒)一個、鍋一個、苞一つをめいめいに用意致しおり候」と書かれ、また、百姓共は、雑言し、錦見市、川西市で売買の物、押す取り打破狼藉、古今未曾有のようすこれあり、言語道断のことこれあり候」とあります。さて、その要求は多少好転して、農民に蔵元から歩みよりの回答が流されて追検見も三歩下げとなり、掛米も、引き下げを10年間にかぎりする。という回答がもたらされ農民も納得して村に引き上げました。
ところが、一揆に参加しなかった、山代組河内組から、「物成り其の他の献義は、前々通り」という上申書が出された事によって、先の回答は撤回され、裁許取消の布告が伝えられました。その決定に対して不満をいただく南部の農民は、年貢引き上げに反対する訴訟を、こんどは本藩萩に起こそうということとなり、由宇、日積、伊陸、玖珂、祖生、柳井、新庄、余田の主謀者達は、高森河原に結集し、むしろ旗を先頭にして萩に向って出発しました。その数300余名、この暴挙に不審をいだいた代官糸賀太郎は、花岡あたりで農民を停止させ、萩に急報、萩より派遣された、目附役、横山一郎兵衛等と会見がなされ、陳情は聞きおかれることとなりました。
その趣旨は、過酷な吉川領より、萩領の方が良いので、組替をしてほしいと言う要求でありました。正式な回答は、吉川家と相談しなければいけないので、おって回答すると約束されましたが、農民の要求どおり簡単に組替ができるものでもありません。その後の申し渡で、農民たちの処分はすぐには行わず、さしあたり、その年から年貢の収納には萩役人が立会することと決まりました。こうして、百姓一揆がきっかけとなって、次第に萩領と岩国領との対立が深まっていきました。岩国藩内では、鳩派伊織と鷹派村為のお家騒動に発展してしまい、岩国城下も動揺するようになりました。
享保5年1月、一揆の責任者はついに高森河原に召換され処分が申し渡されることとなりました。花岡で願出た事件については免訴とするが、それ以後の不服分子に対しては断呼として処分されることとなりました。祖生府史によると、萩に連行された者、由宇村庄屋他16名、日積村庄屋他24名、柳井村庄屋他11名、開作村庄屋他6名、余田村庄屋他6名、玖珂村庄屋他10名、祖生村庄屋他8名、伊陸村14名が萩に出頭しました。
そうして、享保6年3月、萩御舟蔵で判決があり、8名が斬罪、21名は流罪と決定しました。
お仕置を受けた人柄は、柳井後地徳三郎、同開作の新右衛門、祖生中村の助三郎、由宇横道の又五郎、野口栗屋谷の孫八、からうすの善右衛門、日積大里の惣左衛門、伊陸長野の宮吉であったそうです。
また、流罪を言い渡された者21名の中に日積出身者が13名を数えましたが、刑は1年で保釈になり郷里に帰ることが許されましたが、斬首となった処刑者の妻子に対してもおとがめはなく、仕置の有様はそれぞれ遺族に伝えられ、今後は、本心にかえって、まじめな岩国藩の百姓として、なりわいに励むよういい渡されました。
こうした、きびしい一揆の結末は、冷酷なみせしめとなり、百姓に味方した伊織家は嫡子切腹を命ぜられ、農民は隣に接する萩領との年貢の矛盾をつく意欲もくじけ、ただ一途に朝は早く、また夕べは遅くまで勤勉に働くことだけが生きる道であり、忍従に耐えて暮らすことが百姓の道としてたたえられ、岩国領内の農民の生活はつづいていたのであります。
これは大愚和尚の生まれる8年前の時世をつげる特筆すべき事件でありました。
第三章 百姓の子
周防大畠駅より、北に4Km神代川が銭壺山断層によってできた岩尾の滝を左に見て、急な坂道を登るとなだらかな峠にさしかかります。ここからゆるやかな下り坂となり、カーブを廻るたびに、山あいは、次第に田園がひらけて、農家がまた点在するようになります。ここが柳井市日積中山といい、東に鳩子山、西に鉢台山を望む小高い丘に十楽寺という寺が見えます。このお寺は鎌倉時代銭壺山頂(海抜540m)にあったものが、山麓に下されて、村人に崇拝されております。さてこの十楽寺の裏手100mばかり北に大段屋敷という畑があります。ここが大愚和尚の生誕の地であり屋敷跡だといわれております。大愚和尚は、元文3年(1739)日積村、中山、大段(鍵山)と名のる本百姓の二男として生まれたのであります。(幼名不明)(注)その後父親が、大愚を連れて鶴田に隠居分家する。父は、さらに隠居分家する。鶴田家という家は、田一町歩余を自作する百姓で、明治の改名で松村と呼ぶようになり改宗して神道となられ、村境に近い水梨に移転し、長男はその後を継ぎ、近くに隠居も別に建てられて今日に至っております。
当時の日積地区一帯は吉川藩で、由宇組に属し、師走ともなると、日は短かく年貢米を運ぶため馬の鈴音も、まだあけやらぬ静かな山あいにこだましていました。当時の年貢は小さな道をすべて馬で岩国まで運んでいたのであります。
それから江戸時代には、百姓の家に生まれた者は、必ず百姓を続けなければならず、何代たっても百姓以外には成ることが許されない社会でありました。しかし、士農工商のこの封建社会で、ただ一つ、僧となることだけは許されて、「ひとり出家が我が家より出ずれば、九族天に生ず」もいって当時の百姓としては、よほど有難いことであると考え、誇りでもあったようであります。幼い頃より、大変に覚りの早い大愚は、どんな動機であったか知りませんが、岩国の大円寺にあずけられ、出家の道を歩むこととなりました。大円寺は、瑞亀山大円寺と呼び、古墳のあとに「慧極(えごく)和尚」が開山したといわれ、代々吉川家の崇拝を受ける黄檗宗のお寺でありました。(現在の曙幼稚園)境内はとても広く14、000坪もあり、吉川家からの寺禄も多く、各地より多くの修業僧があつまり隆盛をきわめたといわれております。さて、大愚は、集まった雲水の中でずばぬけた俊才で根性も人一倍優れていて早くから住職竜巌和尚の目にとまっていたようです。いい伝えによると彼は抜群の努力家であり、孝という文字を一万回書いて稽古をしたといわれております。これをのちに大愚和尚の「万字孝(講)」といいつたえられていますが、自から孝行を実践し、書道の練習をするには、人々に1万回の文字を書くことを奨めたといわれております。
禅門のきびしい修業生活は、衣も食も住もすべてが簡素であり、木魚を打つ合図で一日が始まり、身も心も掃き清められたこの寺で良き師に巡り合せ、学問や禅に入門し、そしてまた黄檗書道の奥義を極めることもできたのであります。こうした環境の中で宝暦9年己卯2月15日、37世大愚衍操(だいぐえんそう)として得度することができました。里に入れば同行二人ようやく、彼が布教をすることを許されるようになって始めて試みた開山が、通津村長野の谷であります。
現在岩国市通津長野、海岸より2kmばかりの谷あいの小高い丘に、知足寺という寺が明治の半ばまで続いておりました。古老の話によると夏には、そのお寺で盆踊がいつも行われていたとかいいますが、ここが大愚和尚の開山だといわれております。(現在村重武二氏宅地)この地方に残る大愚和尚の伝説にこんな話がいい伝へられております。
長野川にそって登ってゆくと右手の小高い丘の上に一本の大きな柿のある荒地がありました。いつも大愚和尚はこの柿の木に、土びんをつるして、お茶をわかし、ここを根城として托鉢に出かけていたということです。1年、2年と過ぎるうちに、里人はこの粗末な雲水がどうもただの坊主でないことを知り部落の人々の協力で庵を建てることになったといいます。大愚和尚はこの庵の名を知足寺とつけ、知恵を足らす寺だといいました。
ところが、ある日、托鉢にまわっていると、農家の主婦が小川で冬の白菜を洗っておりました。それは長い冬に備えて漬物にするためのものでありましょう。ちぎっては棄て、ちぎっては棄てているそのわくら葉が、霜枯れの長野川を流れていきました。たまたまそこを通りかかりの大愚はこれを見つけ、「もったいない、もったいない」そう思ったものの、すぐにそのまま川に入って取るわけもいかず彼は考えました。
早速に彼は縄をひらって来て、小川にその縄を渡し、縄網を張った格好にして、しばらくここでわくら葉を止めました。「縄目にかかった、白菜に候」。「南無」。こうして彼は、食前に供したといわれています。
この話を聞いただけで、禅僧の彼がどんなに頓智のある生活をし、しかも道徳を大切にして暮らしていたかが想像されます。
大円寺は、その後、安政2年の火災のため全焼をいたしました。今訪れて見ると、古いものは、本尊様と寺額を残すのみですべて焼失してしまったようです。その後記された記録「公私記」ではその昔を知る由もありませんが、寺禄、200石と書いてあり、幕末岩国を代表する寺であったことがわかります。現在職の話によると、大愚和尚は、大円寺7代の住職(8年間)でもあったらしく、彼は、東光寺開山慧極の弟子竜統の後継者であるともいわれ、黄檗禅の正統派と言うことができるのだそうです。

第七章 布 金 祇 園
文化文政時代を化政文化といいます。江戸が町人の町として、また城下町の中心として日本文化の基を作りあげることができたのは、この頃からのことであります。
さて当時の文化が江戸で開花した原因は、いうまでもなく、参勤交代によって地方の栄えた文化が、藩主の参府によって江戸に運ばれ、また江戸のさまざまな文化もその帰郷によって伝えられ、各地方に文化の花が咲きました。さてその頃、防長二州の殿さまは、毛利十代斉煕公の世でありました。斉煕公という方は毛利家の歴史からながめますと、毛利が外様大名であるため、徳川家に接近し、積極的に信頼を将軍から得ようと努力された方であるように思えます。
例えば参勤交代も派手に、江戸沙村に、二十万坪の広大な葛飾邸を建てられ、その後桜田邸もこの頃建てられました。また文政七年、四十二才で隠居され、従兄弟斉元公に長女を配し、家督を譲られて孫の斉広公には、徳川十一代家斉将軍の十八女の降嫁を願われ、華やかな時代を過ごされました。
その後、村田清風が、八万貫の大敵と人に語ったと伝えられる莫大な額の借金も、この時代だけでもありますまいが、文政時代の斉煕公在世の時代に頂点に達したといっても過言ではありません。
時あたかも、露艦や英船が近海に出没、萩でも三島流の海防訓練が沖あいで行われ、内憂外患の時代が、すぐ目前に迫ろうとしていた頃のことであります。
百年の歴史をもつ菩提寺の法燈を護り、重就公のお気に入りで、肝胆相照らす仲となった大愚和尚は、治親、斉房、斉煕四代に仕えて一人憂えることは、百姓の苦しみをよそに、驕奢華美を競われる斉煕公をおいさめする者のいないことでした。世の無常を説こうとした諫言は逆に斉煕公のお気にさわり、おとがめらしき噂が立ちましたが、その真相は明らかではありません。一説には政策であったのではないかと言う説もありますが、毛利十一代史には何も記されてありません。
大愚和尚は、菩提寺永年の最高責任者であり、後輩に道を譲って、寺を正燈和尚にまかせ、退山することとしました。そうして自分には、江戸の上野に旅立ち再び人天の為に、脱空放下の道を説こうと、決意したのであります。
文化14年春3月、東光寺の人々に見送られて、いよいよ出発の日が来ました。彼の脳裏にひらめくものは、在職16年、寺のために努力した数々の想い出であったでありましょう。しかしその中でも最も在職中の想い出となることは、三門建立のために努力したことでありましょう。そこで大愚は、三門の背面に「布金祇園」の4文字を掲げて去ることを思いたちました。
その意味は、インドに生まれられたお釈迦さまが、教を広めようとされた時、須達の長者という人がおられました。須達の長者は、感心なお金持ちで、私財を投げうって舎衛国の太子がもっておられた祇陀の園林を買い求め、釈迦に布教ができるようにお手伝いされたということです。この須達の長者の援助がもしなかったならば、とても今日のような仏教の隆盛は考えられなかったであろうと言うことであります。こうした蔭の努力が須達の長者によって果たされて、この地が後に祇園精舎と呼ばれるようになったといいます。
そこで大愚和尚も、この古事にあやかり、今は亡き、毛利吉就公を始め、その志を継がれた代々の藩主を称え、祇園精舎こそ、ほかならぬ、この地東光寺であると言いたかったのでありましょう。
「布金祇園」まさに80才になんなんとする大愚翁がついに江戸行きを決意した時の感動がこの4文字の中に流れているといってもよい、雄渾な書であります。
ところが江戸で漂白の生活については解明することはできず、明かでありませんが、東光寺を退いた無官の雲水として運を天に任せ、江戸上野に旅立ちました。近世防長人名辞典によると、安福寺という庵を建てて(現在破却)、再び教を広めていったことは確実のようです。しかし、数年にして彼は病にかかり、住み馴れた、萩を慕い、また再び萩の土を踏むこととなりました。そうして萩中津江の庵にひとまず病の身をよせ、静かに養生をつづけながら教を広めました。大愚和尚が帰ってこられたうわさが伝わると門弟も集まり、そこを高安寺と呼びました。(高安寺は天保13年まで続き破却、現在林さん宅)
異郷に病み、なつかしき萩に帰り、生死の解脱を説く大愚和尚もついに87才生涯をここで終えたのであります。
時にまさに文政7年9月18日。残暑なお続く初秋のことで、そばには一遍の辞世(自得寺墓標の漢詩)が残されてありました。
大愚和尚入寂の報は、彼の生まれ故郷、日積、中山にも伝えられたようですが、鶴田家に伝わる話では、名代として誰か、わざわざ萩におもむき、庵を訪ねて見たが、大愚和尚の遺骨も、遺品もすべて出入りする弟子の雲水が奪いあって持ち去り、何一つ形見らしき持ち帰ることはできなく、空しく帰ったと伝えられております。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如く、猛き人も滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。
愚か極まる、雲水と人は思うが、己を知り、「運を天に任せて列渓に落ちる」ことのできる心境こそ、修行を積み、天寿を全うした人のみ達することのできる極致ではありますまいか。
それはまだ、吉田松陰の父杉百合之助が、東光寺の裏山団子岩に一軒の家を借り求め、老母と大助、文之進の弟を連れて移住した年のことでありました。

第八章  余 徳
萩東光寺の三門建立は、今を去る160年前のできごとでありますが、大愚和尚の藩主二君のご冥福と四海太平を祈願したその志は萩の多くの方々の努力によって受けつがれ、復元され、ただお寺の宝だけでなく、観光、萩を代表する重要な建物として訪れる人々の心に永く残るものの一つとなっていることは、誰しも認めるところであります。
しかし、それだけではありません。私は、意外なところに大愚和尚の偉大さを知ることができました。それは、高森通化寺、百才の鷲嶺和尚を訪ねた時であります。
通化寺(つうけいじ)は、有名な雪舟の庭と、奇兵隊の根拠地で有名なお寺でありますので、母と、大愚和尚の実家に当たる鶴田のお婆さんとを連れて訪れることができました。
訪れた私達に老僧は、色々と貴重な話をしてくださり、そうだ、あれをごらんに入れましょうと、つかと立って、大愚愛用のものだと伝えられる、緑色に銀白を織り交ぜた、金らんの袈裟と座布一対を持ち出し、「これは、殿さまのご意志でご殿女中さんにお縫わしになり、大愚さんが着用されたものです。」「それから、またこの数珠も、大愚和尚愛用の品と伝えられ、私が預かっているものです。」と大きな数珠を私の掌にうやうやしく、のせられました。手ごたえのするどっしりとしたその重みが手にこたえたので、「物は何でございますか」とたずねると、「水晶と瑪瑙だ」との返事でした。「私は大愚和尚を師として四代目を継がしていただく、孫弟子のしるしとして預かっております。」「そして私は、大愚和尚を仏として毎日拝んでおります。」と語られたことであります。老僧の話はまだ続きそう、「岡本という日積の校長さんが(元明倫小校長)その昔、私を尋ねられ、袈裟を一度、日積の者に見せたいから、貸してほしいのだがと言われたが」「その後一こうにおいでにならんがお達者やら」と老僧の話。
「いやあの方は亡くなって、20年近くなりますが・・・・・・」そこで、やはり岡本孝一先生も、この同郷大愚和尚を知られ感激されたものだなと、その時知りました。
静かに考えてみるに、現代の世に、毎日、誰かに拝んでもらっている人が何人ありましょうか。二百数十年前に生きた一人の禅僧を、現実に昭和の今日、しかも毎日礼拝しておられる人のあることを知って驚きいりました。
それは、たとえ仏門のできごとであるにせよ、愚かな雲水、大愚衍操和尚にとっては、この上ない余徳と言えるものではありますまいか。
開山五ヶ寺(知足寺・景福寺・自得寺・安福寺・高安寺)
住職三ヶ寺(大円寺・東光寺・法雲寺)

○先日、鍵山さんより村中啓一さんの 「大愚和尚伝」 の後半部分に、田上菊舎が訪れた寺で萩東光寺と京都萬福寺をかん違いされているところがある、との指摘がありましたので下記に記載しておきます。
○萬福寺
3月25日に、京の地を出立した菊舎は、宇治に向かって足をのばし、中国の帰化僧・隠元開基の黄檗宗の大本山・萬福寺(宇治市五ケ庄三番割)を訪ねます。中国の高僧・隠元隆きは、万治2年(1659)6月、68歳の時に幕府から宇治に寺地を与えられ、寺の造営に取りかかります。伽藍の配置や規模は明の寺院に準じ、その様式も明の禅刹様式を採用し、法具や法服・読経・法要なども独特のものでした。寛文3年(1663)1月に隠元は萬福寺を開山し、臨済宗黄檗派の祖となります。萬福寺に一歩足をふみ入れた菊舎にとっては、れまでなれ親しんできた日本の寺院の風景とは、まったく違った世界でした。なにもかもが中国風の山内にいた時は、身も心も異国にあった菊舎ですが、山門を出てわれに返ります。菊舎の目に、青々とひろがる日本の茶畑が、そして茶摘みうたがきこえてきたのです。山門をはさんで中国と日本。その時空をこえた落差の大きさに、菊舎は、「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」(「吉野行餞吟」)と心ふるわせて詠いあげました。
(「田上菊舎」中川真昭 著 本願寺出版社 ・p91)より
◎萬福寺山門前に菊舎の句碑あり