江戸時代
江戸時代をどのように捉えればよいか、苦心の未考えついたのが上のグラフです。日本の歴史と同時に、日積の歴史の流れをこのグラフに当てはめて見ていくと分かりやすいと思います。ペリ一(黒船)来航からの幕末にかけて急激な変化が起こります。大島ロの戦いが特に日積の歴史に影響します。
◎[四境戦争~大島口の戦い~]
◎四境戦争はどのようにして起こったのてすか。
四境戦争とは、慶応2年(1866)に起こった幕府と長州藩の戦いです。6月7日大島口、14日に芸州口、16日に石州口、17日には小倉口において開戦しました。四つの国境が戦場となったため、山口県では[四境戦争]と呼ばれています。四境戦争に至る経緯は、元治元年(1864)7月19日の禁門の変によって、長州藩が敵となったことに始まります。第一次長州出兵は、長州藩が幕府に恭順の姿勢示したことで撤兵令が出されましたが、長州藩内では高杉晋作の挙兵によって戦が起こり、恭順の姿勢を示しながら軍事力強化をすすめる[武備恭順]に方を転換しました。このような長州藩の動きに対し、慶応元年(1865)4月19日、州藩への再出兵が決定されたのです。
◎大島口にはどこの藩が攻めてきたのですか。
幕府は、慶応元年11月、各藩に長州藩再出兵の動員を命じています。出兵命段階では、大島ではなく、山口方面に進軍できる上関に四国諸藩を配置していました。海を隔てて大島と隣り合わせの伊予松山藩、宇和島藩・徳島藩・今治藩どに出兵が命じられましたが、実際に大島まで進軍したのは松山藩だけでした。今治藩は、一番手を出陣させましたが、多くの藩が出兵していないのは[天下人心]が一致しているとは言えないとして大島までは進軍しませんでした。また宇和島藩は、イギリス公使パークスの来藩などを理由に出兵を拒否しています([愛媛県史 近世下])このように、四境戦争では、幕府の出兵命令に従わな藩も多くみられたのです。[維新史回廊だより第14号より]。
◎[四境戦争~大島口の戦い~]
◎大島口はどのように開戦したのですか。
慶応2年(1866)1月22日、幕府は、長州藩に領土10万石の削減などの処分を定し、2月から5月にかけて長州藩へ処分を受け入れさせる交渉が広島で行わました。しかし、長州藩は処分を受け入れず、ついに6月7日、幕府軍艦の上砲撃によって四境戦争が開戦します。家老職を歴任した浦ゆき負は、給領のあ阿月に隠居していました。上関と同じ熊毛半島にある阿月において、浦ゆき負は月7日の様子を次のように日記に記しています。[午前10時頃([四ツ時分])蒸気船が上関の横島近辺から白浜を砲発した。四・五発のうち一発は千葉岳にち込まれ、ニ発は海中に落ちた。それより、蒸気船は大波に出て、大島郡安下あたりで四・五発の砲声があった。]この日、大島郡代官所からは、蒸気船一が安下庄の沖合から四発砲撃し、そのうちニ発が竜崎の海中に落ちたと報告がりました。この蒸気船は幕府の軍艦長崎丸で、この後、宮崎から来た幕府の軍が久賀村沖の前島に碇泊しています。10日の段階では、第ニ奇兵隊の林半七[今日にも合戦になると考えていたが五艘の軍艦は二艘になっており、正午にっても何も起こる様子がない]と報告しているように、しばらく軍艦からの攻はありませんでした。([六月十日世良修蔵・其他宛林半七書簡]徳正寺所蔵)ところが、翌11日、幕府の軍艦が久賀へ向けて頻りに発泡をはじめ、幕府兵が40人ほど上陸して久賀を占拠しました。一方、松山軍も6月8日、大島に進軍しおり、11日には安下庄に上陸し、陣所を構えて占拠しました。長州藩側は、島郡代官斉藤市郎兵衛の率いる隊などが応戦していましたが、11日に遠崎へ去し、大島は幕府軍と松山軍に占拠された状態になってしまいました。
◎長州藩政府は大島口にどのような命令を出したのですか。
藩政府は、六月七日以降の戦況報告を受けて、十日付で第二奇兵隊と浩武隊に大島に進軍することを命じました。また、同時に丙寅丸(へいいんまる)にも大行きを命じ、高杉晋作に乗り組みを命じました。丙寅丸とは、慶応二年五月、杉が独断でグラバー商会から購入した九十四トンの蒸気船で、アームストロン砲を搭載していました。海軍総督を命じられていた高杉は丙寅丸に乗り込み、島口に向かうことになります。十二日、丙寅丸は、午後二時頃に遠崎に着岸し深夜零時から前島に碇泊している幕府軍艦に数十発砲撃しました。この後、小口に向かった高杉は、乙丑丸(いっちゅうまる)を率いる坂本龍馬とともに小倉と戦うことになります。大島口では、高杉の夜襲攻撃を足がかりとして、十五には第二奇兵隊や浩武隊が大島に上陸し、幕府軍・松山軍との戦闘が開始されした。
◎[第二奇兵隊とはどのような隊ですか。]
第二奇兵隊とは、慶応元年(1865)1月下旬、阿月の領主浦ゆき負の家臣白井小らによって創設されました。その前身は、室積の専光寺を本陣とした真武隊で後に南奇兵隊と改称します。現在まで残る当時の記録には、南奇兵隊と記したのも多くみられますが、正式に藩の諸隊に昇格してからは第二奇兵隊と称するうになります。林半七・世良修蔵を軍艦として、浦家の家臣、大島の月性門下も多く参加しました。
◎松山軍とはどのような戦いがあったのですか。
大島に上陸した第二奇兵隊は、屋代の西蓮寺(さいれんじ)を本陣として各方面進軍しました。[第二奇兵隊大島郡合戦日記]には、十六日の松山藩との戦い次のように記されています。[幕府軍に占拠されている久賀を攻め入ろうと垢峠を登ったところ、安下庄に駐屯している松山軍が三手に分かれ、一手は石観清水峠、一手は源明峠、一手は笛吹より百人押し寄せて来たので、石観音清水の南側を浩武隊、第二奇兵隊は頂上において戦いはじめ、正午頃([九ツ時])り激しく戦い、山上一円の煙となった。十四時頃([八ツ時])になって曇り、雨が降り出し、山上は霧のため下から上は見えなくなり、長州軍が下の松山軍向かって小銃を雨の如く撃ちたてた。松山軍は敗走し、手負や死人が多く出た晩になって戦いは止んだが、長州軍は陣太鼓を打ち、山よりは鯨波声(=とき声)をあげて松山軍を追い下した。松山軍は浜辺まで撤退して、十八時頃([暮ツ時])までにはすべての松山軍の船が安下庄から出帆した。]このような激のなかで撤退した松山軍は、[未(いま)だ四国の諸家出勢もこれなく、孤軍に敵地数日の働き、彼是兵力も相労し候]と、四国諸藩の出兵がなく、松山一藩の戦闘が限界に達したと記録しています。([愛媛県史 資料編 幕末維新])。◎[戦後、松山藩との関係はどうなったのですか。]
四境戦争は、七月二十日に将軍徳川家茂が大坂城で急死したことで、九月二日は幕府と長州藩の間で休戦協定が結ばれました。事実上、四境戦争は長州藩の利で終結したと言えます。一方、松山藩では、長州藩が進攻してくるのではなかという心配が広がっていました。松山藩久米村(松山市鷹子町)日尾八幡宮神の三輪田米山は(みわたべいざん)は、七月二十九日の様子を[イギリス船が三に停泊しており、これは長州藩の蒸気船ではないかと大いに騒動になる。ノロなども上がる。]と日記に記しています。松山藩内は、イギリス船を長州藩の気船の蒸気船と見誤って騒動となることを避けるため、大島に使者を派遣するとを決定します。使者の一人である松山藩郡奉行の奥平貞幹(ていかん)(三左門)は、[月窓之巻](愛媛県立図書館所蔵)に、慶応二年(1866)十一月から翌年月まで行われた交渉の経緯とその内容、松山藩政府の方針や藩内の様子などを細に記しています。十一月十五日の交渉では、奥平らは、松山藩が安下庄におて[民家を焼き立て、家財等粉散せしめ、無作法]を働いたことを謝罪し、長藩内の憤怒を鎮めるように依頼しています。六回に及ぶ交渉の結果、両藩の和には至りませんでしたが、再び戦争になることはありませんでした。しかし、応三年(1867)12月には王政復古の大号令が発せられ、翌年一月に、鳥羽・伏の戦いが始まると、四境戦争の時とは反対に松山藩が朝敵とされ、長州・土佐福山藩の兵が松山に入ることになりました。
◎[日積地区史]
Op119[慶応度三丘一手戦争略記]第一次の征長令は、吉川経幹らの斡旋で、戦争に到らず終息した。しかし、高杉晋作らの決起により、正義派が藩権力を握り武備恭順に国論を統一した。幕府は、長州藩の不穏な動きに、その権威回復の為、慶応元年四月第ニ次征長令をだした。こうした風雲急を告げる長州藩及び支藩は、軍備増強の一環として、農・町・僧兵などの民兵団が結成された。三丘村宍戸家でも、当然三丘隊が結成されたが、その日時はこの記録では不明である。本藩の諸隊に倣って、編成上装備は洋式が採用されている。[慶応ニ年四月ニ十四日。惣括宍戸安積、参謀有馬彦兵衛らが、一番・八番小隊、一番・二番鉄砲を引率し、三丘受場の内玖珂郡日積村へ、斥候隊として同村西善寺へ出張す。]記録はここから筆を進めている。つづいて、
○五月ニ十八日。二番~六番小隊、三・四番鉄砲、砲護隊、地雷火隊西善寺へ出張駐屯。
○六月十四日。幕府兵大島郡へ襲来。大島浦、神代浦へ海岸防備に出張、警備に当たる。
○六月十六日。一番・四番小隊、大島郡へ援兵の為、小松浦に上陸。
○六月十七日。久賀へ進撃、この日銃隊軽卒久行又之助銃弾に当たり戦死。同日夜止戦。
○六月十九日。幕府退去したので、日積村へ帰陣した。
○六月ニ十二日。芸州口応援の為、一・二・三番砲隊日積出発。二十四日、芸州佐伯郡小形村へ着。滞陣する。
○六月ニ十九日。砲護隊、日積を発し、小形村へ出張する。
○八月ニ日。玖波浦稲荷山に於いて砲戦。十二□砲で幕軍陣地砲撃。戦死、傷者各一名出る。
○八月七日。風雨の中を大野村幕陣地を襲撃。雨の為砲銃不発となり、相引となり小形へ帰陣。傷者一名。この日を以て止戦。
○八月ニ十二。日積の出張兵、三丘へ帰陣。
○十月ニ十二日。芸州出張兵、三丘へ帰陣。
以上が三丘隊の陣中日誌である。祖生村、日積村は三丘隊の防御の受持であったらしいが西善寺が屯所に選ばれた戦略は、大島口よりの幕軍の進撃が、由宇・神代・大畠へ及んだら、直ちに対応出来る要の位置であったからであろう。それにしても、長州側の戦略は、当時としては情報の確かさ、対応の速さ、統師の見事さは、勝つべくして、勝ったように思う。[日積地区史より]。
「広報 2008ー3 かわら」 金辺峠 Г小倉戦争」
天下分け目の決戦であった関ヶ原の戦い(1600年)ののち、丹後宮津(京都府)の大名、細川忠興は豊前中津に入城し拠を構えました。その後、1602年には中津から小倉に本拠を移し入城。忠興は小倉の町割に当たって、紫川から東側を城下町として開発し、北から門司口、宮野口、中津口、香春口の4つの口屋門を設けました。小倉(秋月)街道は、香春口を起点とし、小倉→徳力→呼野→採銅所→香春→猪膝→大隈→城下町秋月(朝倉市)→久留米市府中を結ぶ重要路であり、採銅所と香春は、その街 道沿いの宿場町として繁栄しました。時は流れて幕末。1853年のペリー来航により諸外国の軍事力を目の当たりにした日本には、二つの大きな流れが存在しました。一つは諸外国を排除して天皇を中心とした政権を築こうとする尊皇攘夷派、そしてもう一つは諸外国の力で日本を再生させようとする開国派。
江戸幕府の下での諸藩は、この両勢力に二分され、各地で激突を繰り返していました。そこで、江戸幕府は攘夷派の急先鋒である長州藩(山口県)を討つため二度の征討を行いました。結果は二度とも失敗に終わりましたが、1865年の第二次長州征伐の際に幕府の要請により出陣したのが、長州藩と接する小倉藩でした。しかし、諸外国の技術を採用した最新鋭の兵器を持つ長州藩に対して槍隊を主力とする小倉藩は なすすべもなく、ついには小倉城を自ら焼き払い、金切峠まで撤退を余儀なくされました。その際、家老島村志津摩は最後まで峠を死守し、両藩の和睦が成立、香春は戦火を逃れました。和睦成立後、金切峠から北側の領地を没収された小倉藩は、香春の御茶屋で執務を始めました。ここに香春藩が成立し、以後、1872(明治2)年に豊津(みやこ町)に藩庁が移されるまで、藩主小笠原氏は香春の地で復興をはかることになりました。
小倉藩最後の藩主「小笠原忠忱(ただのぶ)」
🌕「維新史回廊だより」第27号 2017.8
小倉戦争の戦利品で本を持ち帰る。奇兵隊は慶応2年(1866)8月1日小倉藩が小倉城に自ら火をつけたのち、香春(直方)への撤退したあと、三の丸にあった藩校・思永館(しえいかん)「現在:西小倉小学校の地」から書籍を持ち帰り、奇兵隊の蔵書としています。
白石正一郎日記には、Г八月八日過ニ日小倉渡海の節書物二十箱程、軒物五ふく分捕致候由」と記述されています。