玖珂郡志と享保増補村記
○「玖珂郡志」広瀬喜運 著 1761-1833
「日積村史」日住 日包」
一日積ハ由宇ヨリ南、川上也。東西・南北各一里十八丁。
一大帯媛八幡宮。中尊大元尊神「持2左御手鏡1」今称2八幡宮1故奉レ祭所ノ神霊、中、大帯媛尊。左、仲哀天皇。右、応神天皇。各神像。又、左祭、忠誠社ハ日本武尊・武内宿祢、各東脇。右祭、孝子社ハ事代主命・大己貴命、各北脇。社司中村権少輔、神官高木近江。
当社ハ筑前国香椎宮御同体ト申伝。古来ヨリ旧号日積大元宮ト奉レ称。其旧跡ヲ考ルニ、昔、御社有シ三丁北ノ原ヲ日積市トテ、市郭ノ名アリ。是小国ノ茶臼山ト云城山ノ辺也。日積市ノ事ハ、往古、大元宮盛ノ時、近郷ヨリ諸人群集ノ繁昌ノ旧跡ト申伝ヘリ。此故ニ御茶屋屋敷トテ、高井土佐守ト云ヘル郷士ノ居住セシ原モアリ。
一、琴石山
城主ハ高井土佐守、或ハ堅田ト云。
一、小国城山。本丸三間半ニ四間程、廻リ三段、西ニ堀切、ニ。城主(詰城重忠)不ニ分明一。一説ニ重藤因幡守ト云者、住居セシト申伝。上ノ平ミニ城主墓トテ石畦有。此ノ城山ニ登リ化女ニ逢バ、即病気トナル故ニ姫ケ城ト云。城山ノ南ノ原ヲ城ケ原ト云。首塚トテ小高キ所アリ。一説ニ、所ノ地下人、同所茶臼山ニ小城構住タルト也。然ルヲ海賊槇尾山ヨリ取リ掛ケ、合戦ニ及。其時ノ首塚ト云。形、今ニ有之。又、一説ニ此ノ山ノ西ニ、トウゲン山ニ敵籠リ戦タルトテ、此山ニモ首塚アリ。
一、高山。琴石。三ケ嶽。柳井境。鳩子山。神代境。
一、堅田兵部ト云人居シ跡。堅田土手ノ山根ニアリ。昔、堅田ト云人築シ土手也。新市ノ後也。沖ハ中開作也。
一、杉殿山。下馬皿ニ往古、杉民部ト云人、此山ノ麓ニ居住シケル故、シカ云。山上ニ堀切ノアトモアリ。大内家士。
一、城山。後地ニアリ。上ノ平ナル所、十六間程ニ十三間程有之。
一、城山。石井ニアリ。如何ナル故名付シヤ不分明。千畳敷ト云所モアリ。
一、中山村ニ、吉村備後守勝直ノ末流有之。
一、松ケ段ニ、杉甲斐守屋敷トテ、川角ニ杉屋敷ト云所アリ。大内侍杉弥太郎・杉杢助矩親ハ元亀ニ未卯月廿七日大檀那ト八幡棟札ニアリ。東門・西ノ門・涼ノ殿・矢矧殿ナドトイヘル所モアリ。
一、大里折井ニ、重藤屋敷有之也。
一、大土居ニ、粟屋弥兵衛ト云者、毛利家八ケ国ノ時ハ郡代トシテ居住セリ。一説ニ、宮ケ峠粟屋弥八ハ杉家老トアリ、イカガ。
一堅田兵部ト云人居シ跡。堅田土手ノ山根ニアリ。昔、堅田ト云人築シ土手也。新市ノ後也。沖ハ中開作也。
一今ハ小国村ニ住高井土佐守明久ノ末流居住末流居住。日積市ニ、御茶屋ゝ敷、或ハ代官屋敷ト云ル所アリ。児女ノ手鞠歌ニ日積ノ代官トハ此コトカ。右、高井家ニ重藤弓、或長鎗ノ類伝来。厳島回廊並ニ八幡宮ノ棟札ニ高井土佐守トアル。今、刀祢役。
○「享保増補 村記」=「吉川外記長程」が職役中の享保11年(1726年)に領内の一村ごとの絵図と村記の作成が命じられ、「古帳・旧記を相考へ、又ハ村々古老の説を」取捨選択して調整したものである。
p751 、日積村
一、村境。
由宇堺。狼谷ノ岡より砥石川ノ頭・柳カ坪ノ頭。観音嶽ノ南ノ尾筋・大垰・コクソウノ尾限。 大原丸山 安芸境小瀬より七里。上ノ関より八里。
一里塚カジヤ原 安芸境小瀬より八里。上ノ関より七里。
一、高山並川。琴石山柳井堺。三ツ嶽柳井堺。鳩子山神代堺。川筋。松ケ段ノ水、大里へ通りて流るゝと、小国ノ下モにて出合て流れ、割石・若杉ノ水と国長にて落合
フ。伊陸村ノ水、ウツギヤネを通り、大原一里塚ノ脇にて、又、落合て由宇岩倉エ流る。
一、寺社
光明山 瑞雲寺= 臨済派 永興寺末寺 寺領10石
当寺は、大内家十六代孫新介弘真菩提の為に大内弘世建立あり。弘真を瑞雲寺恵海浄智と号せるを以て寺号を瑞雲寺と称せり。大内家滅亡の後、檀越なくして破壊せしを、御当家御打入の時、堂宇を解て御城下の寺院に用いられしと申伝ふ。依之、元禄の始、御再興ありて寺領10石御寄附也。
正行寺=諏訪原 浄土宗 知恩院直末
西善寺=下川角 真宗 富田善宗寺末寺
教徳寺=丸子 真宗 西善寺末寺
明教寺=大智寺 真宗
西方寺=谷 真宗
大智寺跡文殊堂所ノ名をも大智寺と云
正福寺跡薬師堂=中山
十楽寺跡阿弥陀堂=中山
毘沙門堂=平松
知音院跡観音堂=大里
□悔寺跡観音堂=若杉
八幡宮=大里8月15日神幸
住吉大明神社=大里
伊勢大神宮=若杉・井手薮
大歳社=中山
諏訪大明神社=諏訪原
一、堤。=中山三 坂川 宮カ原 鍛冶屋原 横山 窓石ノ奥 小国 平原
一、古城跡並古屋敷跡。
琴石山柳井境。コトヨシトモ云。本丸・二ノ丸とて峰あり。本丸ハ上ノ平ミ、東西へ長し。廿間二炭釜の如き窪き所有。所の者は掘といへり。二ノ丸は平なる所狭し。本丸より続き、西ノ方ニ二段有。柳井の方に西ノ丸と云あり柳井ノ者ハイカチ城共云。城の東西を堀切てあり。東堀切・西堀切と云。固屋カ谷と云所より本丸へ上る七曲ノ道形あり。城主等知れる人なし。 城山小国。上の平なる所、三間半に四間程あり。此山の廻り、三段有。故に茶臼山共云。西ノ方ニ堀切二ツあり。城主等分明ならず。郷俗之説に、因幡と云者居住せしともいへり。上ノ平なる所に城主の塚とて石畔あり。又、郷俗之説に、此城山に□上りて化女に逢える事あり。若、此化女に逢へば即病に侵さるると也。故に姫ケ原と云所有。 此原に首塚とてあり。郷俗のいへるは、当所の一揆、此城山に籠り居けるに、海賊、由宇の槙尾山より取掛、合戦に及びたり。其時の首塚也といへり。又、一説に、此城の西にドウケン山といへる有。此山に籠りたるものと戦ひたるといへり。ドウケン山にも首塚とてあり。 杉屋敷跡松ケ段川角。昔時、杉甲斐といひしもの居住せりと也。東ノ門・西ノ門・涼ノ殿・矢橋ノ殿などといへる所もあり。
大土居松カ段。毛利家八ケ国御領知之時、粟屋弥兵衛といひしもの郡代として居住せしとなり。
石風呂中山。
一、昔より名を称来れる石・木並石風呂。
割石殿割石川端。由来、分明ならず。古よりわり石殿と称する故に、此辺、所の名とせり。
窓石宮カ垰。古より名を称する故に、此辺、所の名とせり。
腰懸岩大里。大里に御鎮座ある八幡影向の時、御腰を懸給ひしゆへに名付くと也。
若杉若杉。いかなる故に名付けん知れる人なし。若杉、古より称する故に所の名とせり、郷俗の説に、往古よりありし若杉ハ文禄年中朝鮮の時に、船に作りたり。今の杉は其植継也といえり。
一、日積村に四十八原ありと昔より申伝ふ。今考るに、大原・わらびなケ原・末延原・後段原・宮ケ原・鍛冶屋原・日積市原・城カ原・御氏カ原・魚切原・堺原・十楽寺原等と云原有。是、往昔、市井ありし所也といへり。今も市夷の跡と称する所あり。
一、日積村ハ晩田多し。七歩程ハ晩田、三歩程ハ中田なり。苗をさす時分ハ五月中を最中として、六月の節へ入らざる節に植る也。