秋の里山ウォーク「10月30日」
中院地区のほぼ中央にある観音堂は、往時の禅寺智音院の跡の名残りといわれています。いま、行政面では中院と表記していますが、本来の地名は智雲院です。禅寺の智音院(または知恩院)があったことから地名となり、智雲院と変化してきたものでしょう。「古村記」(1668年、岩国藩最古の地誌)に、「大里ニ知恩院ト云ウ禅寺ノ跡アリ、ココニ今観音堂アリ」とあり、「享保増補村記」(1726年)には大里の小名として「・・殿垣内、平原、知恩院・・等」があります。大内氏の時代、日積村は直轄領地で、重臣の杉氏に代官職を命じています。室町時代の古文書「正任記」には、「筑前博多に在陣中の大内政弘へ陣中見舞いとして、日積村の知恩院(杉豊後弘重息女弘英姉)から文明10年(1478年)10月24日に300疋を進上している」とあり、当時の知恩院は、重臣の一族の息女が入山するような由緒ある寺院であり、資産もあったかことが伺えます。その寺もいつしか衰え、「玖珂郡誌」(1802年岩国藩編)には観音堂として記載されていて、「此ノ所、禅宗恵光山智音院ト申シ伝ウ云々・・本尊、木、立、作知ラズ」とありますが、その古びた気品のある木彫りのご本尊は、最近になって何者かに持ち去られ、今はありません。
秋晴れの素晴らしい天気に恵まれた10月30日(日)、令和4年度「秋の里山ウォーク」を行いました。コースは、観音堂⇒柳井にっぽん晴れ街道「小瀬ー上関往還」⇒日積市原「北方代官所跡」です。
「街道」での「塞ノ神」を説明。
細くて険しい「街道」を足下に注意しながら歩いています。
観光ぶどう園のぶどう棚の広がる台地日積市原は、昔には近郷を結ぶ交通の要所であった。旧街道小瀬・上関往還と宮ケ峠から伊陸へ通じる道が交差する所であって、旅人をねぎらう茶屋もあったそうで、 茶屋跡といわれる所もあります。
日積市原の台地は、河岸段丘の形成によるものといわれ、要害の地で、中世の大内氏時代には代官も居住していたようで、高井氏宅付近が北方代官屋敷跡なのか、中世の焼き物のかけらや朝鮮や中国の焼き物 、山口の大内館と同じ古瓦などが見つかっています。
旅人が憩うた茶屋跡の所に、ズイズイ(学名シャシャンボ)の大木が立っています。胴回り2メートル9センチもあり、西日本では最も大きいといわれています。
また、この台地に日づめ(月末)の市がたっていたので、この台地を日積市原と呼ぶようになり、日積の地名になったという説もあります。