雄略天皇

(【万葉集発耀讃仰(はつようさんぎょう)碑】(桜井市黒崎白山神社境内)→雄略天皇の泊瀬朝倉宮と考えられる桜井市脇本遺跡近くの白山神社境内に建てられた雄略天皇の歌で始まる【万葉集】巻1の巻頭を顕彰した碑。保田與重郎(やすだよじゅうろう)(1910~1981)の書。保田は、桜井生まれの文芸評論家として有名。彼の多くの著作は【大和桜井の風土の中で身につけた豊かな日本古典の教養】に裏付けられたものであった。)

【脇本遺跡】○2010年6月初旬に脇本遺跡で、6世紀後半に建てられ、6世紀末~7世紀初めに建て替えられた、大型の掘立柱建物の存在していたことが報道された。建て替えられた大型建物の堀り方は長辺2.0mの大きなもので、柱の径は48~58cmにも及ぶ。楼閣状の建物だったのではと思われる。国道165号線拡幅にともなう発掘調査で、現場は【灯明田(とうみょうでん)】地区から東方180mの所。朝倉小学校校庭の南側に接する場所である。楼上に昇れば初瀬谷はもちろんのこと、西方の桜井市慈恩寺や外山(とび)の一帯をも望むことができたと思われる。初瀬谷を東へたどれば墨坂(宇陀市榛原(はいばら)区)を越えて宇陀へ。さらには伊賀、伊勢に至る道筋であったから、推古朝においても、脇本遺跡の地に国家的な施設が設けられていた可能性が大きい。

○新古代史検証、日本国の誕生3[ヤマト国家の成立]雄略朝と継体朝の政権。上田正昭。文栄堂。p18画期としての雄略朝。泊瀬朝倉の宮に宇御めたまひし天皇の代、大泊瀬稚武天皇天皇の御製の歌[籠(こ)もよ/み籠持ち/ふくしもよ/みぶくし持ち/この岡に/菜摘ます児(こ)/家告(いえの)らな/名告(の)らね/そらみつ/大和の国は/おしなべて/我こそ居(お)れ/しきなべて/我こそいませ/我こそば/告(の)らめ家をも名をも]。[万葉集]巻一の巻頭の歌。[ふくし]は土を掘るヘラ状のもの。[菜]は若菜。うららかな春先、大和の初瀬谷の岡で若菜を摘む乙女に、雄略天皇が名を問いかけた歌である。のどかな歌であるが、一方では自ら大和の国を支配する大王であることを歌っており、威厳に満ちた歌でもある。

河内古道 「日下の直越えの道」=5世紀頃には、生駒山西麓の河内低地には河内湖という湖沼が広がり、現在の東大阪市日下一帯は草香江(日下江)とよばれる入江であった。「古事記」雄略段に「日下江の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも」と見える。
日下の直越えの道は、難波と大和を結ぶ最短のまっすぐな道であった。「万葉集」巻6ー977にみえる、神社忌寸老麻呂(かみこそのいみきおゆまろ)が「草香山を越ゆる時に」作った「直越えの この道にして 押し照るや 難波の海と名づけけらしも」は有名である。
◎「万葉の旅(中)犬養孝(寝室)p26「直越(ただこえ)の/この道にして/おしてるや/難波(なには)の海と/名づけけらしも」神社老麻呂(かみこそのおゆまろ)「巻6-977」。
p32「明日香川/黄葉(もみちは)流る/葛城の/山の木の葉は/今し散るらし」作者不詳(巻10-2210)。大和の飛鳥はあまりにも有名だが、河内にも飛鳥がある。二上山(にじょうざん)西方一帯の地で、記紀の履中天皇のところにも「近飛鳥(ちかつあすか)」「飛鳥山」と出ていて、もとの古市郡飛鳥の村は、いま近鉄吉野線上(かみ)の太子駅付近に羽曳野市飛鳥として名をのこしている。
「大坂を/わが越え来れば/二上に/黄葉流る/時雨ふりつつ」(巻10-2185)

◎「隠された物部王国「日本(ヒノモト)」
p38 「古事記」序文=「また姓(うじ)におきて日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名におきて帯(たい)の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如き類(たぐい)は、本の随(まま)に改めず」。「日下」と書いてそれを「くさか」と読ませる、というふうに「古事記」の序文に記されている。なぜ「日下」を「くさか」と読ませるか。これについてはすでに当時、意味がよくわからなくなっている。そこで慣習に従ってそのままにしていた、というふうに太安万侶は書いている。
p40「万葉集」巻四 「草香江(くさかえ)の入江に求食(あさ)る葦鶴(あしたづ)のあなたづたづし友無しにして」とある。

△[消えた古代豪族][蘇我氏の謎]p10①
蘇我氏の出自には諸説あるが、近年もっとも有力視されているのは、そのルーツを五世紀に活躍した古代豪族[葛城氏]に求める説である。大倭国の葛城地方(現在の奈良県葛城市、御所市のあたり)を根拠地とした葛城氏は[葛城襲津彦]という人物を祖とする集団とされ、五世紀に、仁徳天皇や履中天皇、雄略天皇といった天皇たちに一族の女性をめあわせることで、天皇家(大王家)の外戚として大きな権力を握った。しかし、有力者である葛城円大臣(つぶらおおおみ)が雄略天皇に、その兄にあたる安康(あんこう)天皇の殺害の嫌疑をかけられ滅ぼされたという逸話が残るように、6世紀に入ると影響力が低下し、めだった活躍が見られなくなる。そんな葛城氏の衰退と交替するかのように登場するのが、蘇我氏である。この蘇我氏こそ、葛城氏の一族集団のなかから生まれ、大和盆地中西部の曽我の地に根拠地を定めた者たちだと考えられるのである。
△[②]雄略天皇の時代(5世紀末)には、蘇我満智(まち)という人物が渡来系の氏族たちを統率して、斎蔵・内蔵・大蔵という朝廷の官物納めた三蔵を管理するようになったとされ、古代王権の内政に指導力を発揮し始める。