日積小学校スクールガード対面式
平成29年5月17日(水)14:25分から日積小学校体育館でスクールガード対面式が行われました。 A巡査さんから交通安全についての注意事項の説明があり、児童代表のお礼の言葉のあと、スクールバスに乗り込みました。 人数は少なくても子どもたちの一人ひとりの安全を見守っている地域の方々の協力には感謝です。…
平成29年5月17日(水)14:25分から日積小学校体育館でスクールガード対面式が行われました。 A巡査さんから交通安全についての注意事項の説明があり、児童代表のお礼の言葉のあと、スクールバスに乗り込みました。 人数は少なくても子どもたちの一人ひとりの安全を見守っている地域の方々の協力には感謝です。…
江戸時代をどのように捉えればよいか、苦心の未考えついたのが上のグラフです。日本の歴史と同時に、日積の歴史の流れをこのグラフに当てはめて見ていくと分かりやすいと思います。ペリ一(黒船)来航からの幕末にかけて急激な変化が起こります。大島ロの戦いが特に日積の歴史に影響します。 ◎[四境戦争~大島口の戦い~…
○「玖珂郡志」広瀬喜運 著 1761-1833 「日積村史」日住 日包」 一日積ハ由宇ヨリ南、川上也。東西・南北各一里十八丁。 一大帯媛八幡宮。中尊大元尊神「持2左御手鏡1」今称2八幡宮1故奉レ祭所ノ神霊、中、大帯媛尊。左、仲哀天皇。右、応神天皇。各神像。又、左祭、忠誠社ハ日本武尊・武内宿祢、各東脇…
右側の四角堆の屋根が十楽寺です。 十楽寺は、弘法大師が諸国巡礼の折り、中山の里を尋ねられ、鳩の子に導かれて、銭坪山に登られ、御来光を拝され、山上に開基された寺といわれています。 本尊の阿弥陀仏は恵心僧都の作といわれ、市内では最古の藤原仏といわれ、市の文化財に指定されております。 何時の頃か、山上より…
海です。 5月の連休のある日、日積のある団体による ある活動のための下見に行ってきました。 小さな人影が見えます。 ここで何かをします。 ここでも何かをします。 芝生です。何をするのでしょう。 海です。 その時が楽しみです。 晴れることを祈ってます。 海です。
萩市の、毛利藩主の墓所のある、東光寺第15世住職で、同寺中興の大愚和尚は、日積中山の生まれです。 今は、畑になっている「大段屋敷」といわれるこの地に、元文4年(1736)に生まれました。 百姓の子として生まれた彼は、長ずると志を立て、僧侶となりました。 生来の俊才と懸命の努力で、各地に寺を創建し、高…
大帯姫八幡宮の玉垣に高井藤右衛門の銘あり 弘安の役で毛利八ケ国時代に入り、日積の直接の支配は高井氏にかわった。高井は伊予の河野水軍の出で、後に毛利に仕えて、正覚寺守恩の配下であったらしい。 守恩は、毛利五奉行の一人、粟屋元親の弟で、毛利の陣僧でもあった。弘安の役後、日積の杉氏の後地を領し、由宇に住し…
柳井市大字日積宮の下 当社の創建は明らかでないが、社記によると天平宝字年中(756~’64)といい、「玖珂郡志」にも当社の旧社地日積宮ケ原の「宮石」の図を載せ、その注に「按、寛正3 年(1462)、大内左京太夫政弘ヨリ氏子境ノ証文アリ、勧請ハ 天平宝字也」とし、宮ケ原から現在の社地への遷座は、「大内…
鍛冶屋原の地は、元は「市の原」と言った。ここにも、日積南方代官杉氏が居り、市が立っていたからです。 元亀・天正年間(1570年代)に「鍛冶神右衛門」という鍛冶屋がおり、矢を造っていた伝承があります。 八幡宮の棟札にも「鍛冶神右衛門」の名があり、八幡宮の改築にも深く関わり、しかも、大檀那である杉氏との…