万葉集と上関

【万葉集と上関】7世紀後半、朝鮮半島では【高句麗】【新羅】【百済】の三国が対立していました。半島統一を目論む新羅は唐(中国)と同盟し、百済に進攻しました。百済は友好関係にあった倭国(日本)に救援を求め、要請を受けた日本は天智天皇率いる2万7000人の大軍を朝鮮半島へ海外出兵しました。日本史上最初で大規模な国際紛争となった【白村江の戦い】で日本は唐、新羅の連合軍に大敗し、国家存亡の危機にさらされました。日本は、亡命してきた百済の人と共に国家体制の整備を急ぎ、唐、新羅の進攻に備え対馬、北九州、瀬戸内沿岸に朝鮮式山城を築きました。一方では後に朝鮮半島を統一した新羅に外交使節を派遣しました。この使節が【遣新羅使】です。天平8(736)年6月、難波津(大阪湾)を出発した使人達は船泊りしながら瀬戸内海を西へ西へと航行しました。室積半島と長島に囲まれた一帯の海は古代、【可良の浦】と呼ばれ【遣唐使】や【遣新羅使】の船が停泊する国際港でした。
使人の船は可良の浦へ船した際、遠国である新羅への旅のつれづれに都へ残してきた妻や恋人に想いを馳せ、望郷の念にかられながらその時の心情を歌に詠んでいます。
【都辺へ 行かむ船もが 刈薦(かりこも)の 乱れて思う 言告げやらむ】→彼等は可良の浦で船泊まりの後、再び西へ向けて出航しました。雑石(ぞうし)の瀬戸(佐合島と長島の間の海峡)を抜けると茫洋(ぼうよう)とした周防灘が見え、そこには神秘的な祝島の姿が紺碧(こんぺき)な海にぽっかりと浮かんでいました。使人達は祝島に航海の安全を祈り、この海域でも歌を詠んでいます。【草枕 旅行く人を 伊波比島 幾代経(いくよふ)るまで 斎(いわ)ひ来にけむ】彼等の乗った船は東に祝島を見ながら西航し、筑紫の館へ到着したときは折しも【七夕の夜】でした。彼等の頭上には天の川が満天の空へ輝いていました。【夕月夜 影立ち寄り合ひ 天の川 漕ぐ舟人を 見るがともしき】と万葉集巻15.3658にはその時彼等が望郷の念にかられて詠んだ歌が残されています。このように上関周辺では都から大陸や朝鮮半島の国へ往来する外交官の乗った船が頻繁に航行し、船泊まりした海域であったのです。

◎天平7(735)年から、日本では天然痘の流行があったことが、【続日本紀】などに記録されている。当初は、大宰府管内での流行だったものが、天平9(737)年には畿内にまで広がっており、朝廷の役人の間にも蔓延していた。朝鮮半島の新羅で、同時期に疫病が流行しており、遣新羅使を通じて、国内に病気が持ち込まれたものと考えられる。藤原四兄弟のうち、最初の犠牲者は次男で、正三位参議の藤原房前だった。その三カ月後、天平9年7月には、四男で従三位参議の藤原麻呂、長男で右大臣の武智麻呂が亡くなっている。最後に、翌8月には三男で正三位参議の藤原宇合がやはり天然痘で亡くなり、藤原家は大打撃を受けることとなった。聖武天皇は、疫病の流行を受けて、免税を施すなど対策を講じたが、東大寺の廬舎那仏像(大仏)の建立も、こうした疫病を踏まえてのことだったとされる。【疫病の日本史】本郷和人より