田ノ浦遺跡と祝島

 ○「田ノ浦遺跡(縄文)」(手前)と祝島(遠方の島)

「田ノ浦遺跡」→田ノ浦遺跡は上関町で唯一の縄文遺跡として知られていましたが今回、上関原子力発電所建設に伴う発掘調査による出土品からこの遺跡の全体像が究明されました。この遺跡は縄文時代前期(約6000年前)から平安時代(約1200年前)の間約5000年間に亘って、漁労・狩猟・採取・製塩等を営む人々が継続的に居住した集落跡であると推定されています。出土品の中で特筆されるものは、大分県姫島産の黒曜石・佐賀県、島根県、香川県産の石材で作られた石器類、中国製陶器・朝鮮半島の青磁器が出土しています。また、奈良・平安時代に都や国府などの役所・寺院で使用されていた赤い土師器(はじき)や釉薬(ゆうやく)をかけた緑色の土師器や須恵器(すえき)、更には、役人が着用したベルトの飾り金具、祭祀に使う壺や高坏(たかつき)、製塩土器等が出土しています。このことから田ノ浦遺跡はこの地点と西日本各地や九州と海を介した交易が盛んに行われていたことがわかりました。更には製塩土器に関わるその他の出土品から製塩は官営で行われ、奈良・平安の都と関わりのある遺跡であることが推定されています。従ってこの遺跡が単なる僻地の集落跡ではなく、この近海(祝島沖)で万葉集が詠まれているように大陸や朝鮮半島と都を繋ぐ古代航路を介して重要な役割を果たしていたことが窺われます。「上関町・原発予定地内の遺跡調査開始」過去の新聞記事より。
「上関原発の建設予定地内できょうから縄文時代の遺跡の調査が始まりました。調査が始まったのは、上関原子力発電所の建設予定地内にある田ノ浦遺跡です。初日のきょうは、調査を担当する県埋蔵文化財センターの職員3人が現地の地形を確認する地形測量を行ないました。田ノ浦遺跡では、詳細調査開始前の調査で縄文時代の土器片などが見つかり、発掘調査が必要とされました。調査は、海岸沿いの長さおよそ100㍍、幅10㍍の範囲が対象で、半年程度かかる見通しです。ところで、中国電力は、原発建設に向け予定地内で4月からおよそ2年をかけた詳細調査を行なっています。このため今回の遺跡の発掘調査で貴重なものが出土すれば詳細調査への影響も考えられます。=県埋蔵文化財センター石井龍彦文化財専門員「ここの遺跡から出てくる土器そういったものによって縄文時代の暮らしっていうのがかなり分かってくるんじゃないかっていうことを期待しています」Q.貴重な出土品が出る可能性は「今現在の状況からいいますと可能性はあまり高くないと思っています」=田ノ浦遺跡の調査のために中国電力は、工事用車両の駐車場から現地まで、機材などを運ぶモノレールの整備を進めています。来週くらいまで地形測量が行なわれたあと、本格的な発掘調査は、来月中旬頃から始まる見込みです」。

◎【祝島】【家人(いへびと)は 帰りはや来(こ)と 伊波比島(いはひしま) 斎(いは)ひ待つらむ 旅行く我を】(巻15.3636)。
【草枕 旅行く人を 伊波比島 幾代経るまで 斎(いは)ひ来にけむ】(巻15.3637)。
このニ首は【周防国玖珂郡の麻里布の浦を行く時に作る歌8首】の中に排列されている。祝島は今の山口県熊毛郡上関町祝島である。遣新羅使船は、現在の岩国市室の木あたりとされる麻里布の浦を通過し、大島の鳴門(大畠瀬戸)を抜け、いま柳井市になっている室積半島の東側を南下して、その南端室津を迂回し、熊毛の浦、可良の浦に舟泊まりしている。祝島がはじめて見えてくるのは、室積半島の西側の尾国から小郡(おぐに)の湾曲を過ぎたあたりからである。つまり、長島の北端小山とその北に浮かぶ佐合島の間、ここは雑石(ぞうし)の瀬戸というが、この瀬戸の向こうに祝島、小祝島が、ちょうど大小の鏡餅を横に並べたように、その姿を見せる。地理的にみると、【麻里布の浦を行く時】にはまだ見えない位置にあるのだ。これをどう考えればよいのか。祝島を詠んだこのニ首は、話に聞いて知っている島、もうすぐその姿を見ることができるという期待感をもって、麻里布の浦を行く時に作歌したのだろうか。こうした例は使人の歌にほかにもある。たとえば、一行が周防灘で逆風に遭って漂流後、分間(わくま)の浦(大分県中津市の田尻あたりか)に漂着したとき詠んだ旋頭歌。【ぬばたまの 夜渡る月は はやも出でぬかも 海原の 八十島(やそしま)の上ゆ 妹があたり見む】(巻15.3651)この一首も属目の景を詠んだ歌ではない。【八十島の上ゆ】というが、中津市付近の周防灘に島はなく、今まで通ってきた瀬戸内海のたくさんの島々を想起して歌ったものである。また、【妹があたり見む】というけれど、月がいくら早く出ても妻のいる大和の山々が見えるわけではない。もちろん文学的虚飾である。同じように、祝島のニ首も属目の景をモチーフとして詠んだ歌でないと考えるほかない。
一首目、家で父母や妻子らが、早く帰ってきてくれと、祝島のその名のように斎って、つまり身を忌みつつしんで祈りながら自分を待ってくれているだろう、と歌う。【斎ひ待つ】とは、穢れに触れないように身を慎みながら、旅に出ている人を待つ、という呪的信仰に基づく行為である。【斎ひ】の行為は一般に、みずから慎みの生活を守りながら吉事を求め祈るのである。遣新羅使の一行が筑紫の館に到着したときは、すでに七夕(たなばた)であった。はや秋風も吹くころとなっていた。大使阿部継麻呂(あべのつぐまろ)の次男(継人か)が次のように歌っている。【秋風は 日に異(け)に吹きぬ 我妹子(わがもこ)は 何時(いつ)とか我を 斎ひ待つらむ】(巻15.3659)秋風が日増しに身にしむように吹きだしたいまごろ、都で妻は自分の帰りを、あてもなく斎(いわ)い待っているだろうという。【斎ふ】行為は人間だけがするのではない。頭書のニ首のように、神も斎うのだ。祝島の神はどんなに長い間、付近を航行する旅びとの無事を祈って忌み慎んできたことだろうという。