狩野岩


郡志に「大原ニ名石アリ、昔狩野古法眼(元信)絵ヲ画ク」とある。狩野元信は同派の二代目で、法眼の称号を得ている。狩野派は、室町後期から江戸時代、幕府や武家の御用絵師として繁栄した。はたして、二代目元信が草深い日積に足を即したろうか。
上田布施の峠に、狩野古法眼の筆掛けの松といわれる古木があったという。この峠より、室積湾の絶景を絵にせんとしたが、あまりの絶景に絵にならず、かたわらの、松に筆をつるして、嘆息したそうだ。
当時は一宿一飯を求めて、諸国を渡り歩いた絵師もあったらしい。本人かあるいは同派の門弟か、この名石は何も語ってくれない。古代信仰で、大木・大岩には神が宿ると畏敬した。
今は、近隣の人々は石神様としめ縄を張り、火伏の神祭をしている。一度神社整理で、八幡宮へ合祀したが、たびたび火災が発生したので、再度勧進したと古老はいわれる。
かっての名石、今は、火伏の奇岩とは不思議である。

狩野 元信(かのう もとのぶ、 文明8年8月9日(1476年8月28日)? – 永禄2年10月6日(1559年11月5日)[1])は、室町時代の絵師。狩野派の祖・狩野正信の子(長男または次男とされる)で、狩野派2代目。京都出身。幼名は四郎二郎、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」(こほうげん)と通称された。弟は雅楽助。
父・正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理(後述)しつつ大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる狩野派の画風を大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。
絵師として製作年が明らかな最初の作例は、永正4年(1507年)細川澄元の出陣影の制作である。記録上の初見は永正10年(1513年)で、細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作している。現存する大徳寺大仙院の障壁画は、同院創建時の永正10年(1513)の制作とするのが通説であったが、大仙院方丈の改築が行われた天文4年(1535年)の作とする見方もある。元信は60歳代にあたる天文年間に以下のような大きな仕事に携わっている。まず、天文8年(1539)から約15年間、石山本願寺の障壁画制作に携わった。この間、天文12年(1543)には内裏小御所、同じ頃には妙心寺霊雲院の障壁画を描き、天文14年(1545)頃に法眼(僧の位の一つ)を与えられている。

こうした権力者の需要に応える一方で、町衆には絵付けした扇を積極的に販売し、当時の扇座の中心人物であった。『古画備考』所載の幕府への起請文には、扇絵制作の権利を持たないものが勝手に扇を作るのは違反なので、即刻その停止を命じて欲しいと記されており、元信の画工というより有能な事業主としての姿と、狩野派の民間工房的性格を垣間見られる。元信は、幕府、朝廷、石山本願寺、有力町衆など、時の有力者より庇護を受けつつ、戦国の乱世を生き抜いた絵師といえよう。

狩野派様式の確立

元信の作品は、漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法を基礎としつつ、大和絵系の土佐派の様式を取り入れ、書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立した点に特色がある。
新たな顧客からの注文の増加と多様化に対応するため、元信は新たな画風や制作体制の必要にせまられた。当時の絵師は牧谿様、夏珪様など宋や元時代の中国画人の作風で描くことを求められたが、日本にある彼らの作品は小品が多く障壁画や屏風絵のような大画面の構成に不向きであった。そこで元信は、彼らの筆様の整理・統合し、書体になぞらえた「真」「行」「草」の3種類の画体を確立、これを弟子たちに学ばせて、幅広い注文主の要求に応えた。多種多様な絵を大量制作できるこの方法は、後の狩野派の制作体制を決定づける事になる。なお、真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿、草体は玉澗の画風を元としている。そのため現在でも大量の「元信印」を持つ作品が残っているが、それが却って元信自身の作品を見分けるのを困難にしている面もある。
また、大和絵系絵師の専門領域であった絵巻物や金碧画を積極的に取り込み、上記の漢画の筆法や堅固な画面構成を取り入れ、華麗さと力強さが共存した和漢融合の様式を生み出した。後の狩野永納が著した『本朝画史』には「狩野家は是、漢にして和を兼ぬる者なり」という有名な一節があるが、和漢兼帯の姿勢は元信の時代から培われた狩野派の特色である。

職業絵師としてさまざまなジャンルの作品を残しており、『飯尾宗祇像』(ボストン美術館)のような肖像画、兵庫・賀茂神社の『神馬図額』(絵馬)のような作品も現存している。

また、桃山時代の先駆となった枯山水である妙心寺退蔵院庭園は、狩野元信が作者との伝説がある。